Lesson806
読者の声
―「破壊はホントに創造につながるか?」について
「ぶっ壊せば新しいものができると思っている人がいる。
これはいいことなんだろうか?
破壊と創造はセットだし壊せば‥‥と
私も思ってきた節がある。
でも「創る」って、
本当に新しいものを創った人を見ると
もっとコツコツとした継続的な行為なのだ。
とにかく壊したら酷い現状がより酷くなっただけ、
では?」
と先週ここで問いかけたところ、
読者からおたよりをいただいた、
さっそく紹介しよう!
<壊したい、目立ちたい>
私は壊したいです。
なんか、壊したい! と目立ちたい! があります。
いまだにそういうのがかっこいいと思っています。
でも、なんか違うなーと思うこともあります。
あるとき身内の集まりで、
中学生の壊し屋がいました。
そして、その人の発言はみんなから喜ばれました。
私がずっと言いたかったことでもありました。
たぶん、みんなも壊し屋と同じ気持ちだったからだと
思います。
でも、そのとき、壊し屋の味方がいっきに増えて
「1人対たくさん」の構図になったんです。
なんか、急にいじめ? みたいになったんです。
それが嫌だなーと思いました。
壊したとき、自分が先頭きることになるのが嫌です。
それか、いじめみたいになるのが嫌です。
なんか、壊せてないじゃんとなります。
こんなつもりじゃなかったんだけどなと思います。
敵になりたいんじゃなくて目立ちたい、なんとかしたい
が目的だから。ほぼ「目立ちたい」ですけど。
あと、だいたい壊し屋をやったら後悔します。
やってるときはニヤニヤするけど
夜には確実に落ち込んでます。
だけど、それでしか自分の気持ちを伝えられない!
どうしても伝えない!
もう耐えられないと思ったらやります。
壊し屋になりたいときは、少し嬉しいです。
謎の嬉しさです。
だから、全部否定はできないです。
(T)
<届けることが目標だから>
誰かに言いたいことがあって、
それを時と場合を考えずに言っていたのが若かりし頃。
今は、届けるためにいつがいいのか、
誰が良いのか考えます。
相手に届けることが目標なので、
私が言うより、
相手が尊敬・信頼している人に
言ってもらった方が届く場合は、
「私」を押し出さなくて良いと思えるようになりました。
決して誰かに言わせて
自分をよく見せようとかではありません。
私で届かないから策を練るのです。
積み重ねたものの重みで作品も人間関係もできていく。
年を重ねてコツコツやった経験が増えた
いまだからこそ、こう言えます。
「破壊するなら対案を必ず出す。」
(人それぞれ)
<生活習慣創造中>
今年の特定検診の結果、
保健の指導員から指導を受けることになりました。
1ヶ月分の体重、体脂肪率、腹位、等の記録を
毎月、半年間報告することになりました。
間食は100キロカロリー以内にするなど
細かく目標も立てました。
創造は、コツコツとした基礎の地道な積み上げからなる。
というレッスンの内容が、
健康への道に通ずる手がかりとなりました。
ストレスを食べることで解消していた生活から
変えてゆく必要に迫られています。
生活習慣を変えるのは、なかなか大変ですが、
楽しみながら、コツコツ、積み上げていきたいです。
(A.T)
<破壊よりスゴイ>
元寿司職人のマスターが営む海鮮居酒屋で
アルバイトを続けています。
そこで思うのは、
「現状維持とは不変ではなく、創造の連続そのものなのだ」
ということです。
お店は、
仕込から調理までそのほとんどを、
還暦を過ぎたマスターが一人で行っています。
「どこに力をいれてどこで力を抜くのか」
長年思考錯誤の連続だったといいます。
「お客さまに満足していただくために、
自分にはなにができるのか」
「お店を成り立たせるためにはどうすればいいのか」
日々考え、工夫を凝らし、
季節や年月の変化にあわせて、
お店もマスターも変化し続けているからこそ、
お客さまにとって、
「いつ来ても変わらない、安心するお店」
であり続けているのだと、
働きながら強く実感しています。
日々のコツコツとした積み重ねって、
破壊なんて大それたものなんかより、
実はとてもクリエイティブな行為なのかもしれません。
(ルリ子)
私がこのテーマで、
もっとも恐ろしいと思ったのは、
破壊的な言動をする人がいる、ということよりも、
誰か1人が破壊的な言動をしたとき、
「そうだ! そうだ! ぶっ壊せ!」
と支持する人が、
予想以上に多くいる
という事実だ。
しかも、
ぶっ壊し屋さんを持ち上げている人たちは、
特別過激な人たち、ではない。
むしろ、それまで
親や先生や上司の言うことを従順に聞き、
常識や慣例を守って生きてきた人たちだ。
読者のTさんが言うように、
「破壊願望」はだれにでもある。
私にもある。
ただそれは、ひごろ抑制しているので、
だれかが「ぶっ壊せ!」と代弁してくれたとき、
スカッ! として、
その人をヒーローのように思う。
たとえば、学校で、
みんなが厳しい補習やテストの重圧に苦しんでいるとき、
あるいは、会社で、
上司から、さいさん企画にダメ出しをくらって、
部下たちはもう、絞り出そうにも
1滴もアイデアがでなくて、
自尊心も傷ついてへとへと、というようなときに、
みんなのまえで、権力を恐れずたてついて、
先生なり、上司なりの、非を指摘する人が出たら、
意外に、そうだそうだ、と味方につく人は
多いんじゃないかと私は思う。
日ごろフタをしている破壊願望を
誰かがパカッ! とはずしてくれて、
そんな誰かに吸引され、
ゾクゾク、ワクワク血が騒ぐ感じは、私もあるのだ。
でも、そこでちょっと立ち止まって考えてみると、
どうも「安直」。
もっと言うと、「疲れ」なのかも。
疲れが出ると、
早く安直に変化が出るものにとびつきたくなる。
破壊願望が強くなるのはそういうときだ。
私だって追い詰められ続けたらきっとそうなる。
つくづく「考える」のをやめちゃいかん。
勉強だったら、
どうしたらそんな長時間の補習やテストを
受けなくても、コンスタントに点が取れるようになるか?
仕事だったら、
どうしたら、もっと面白い企画がだせるようになるか?
そこを考えなければ。
そこを何とかしてくれるのが本当のヒーローだ。
結局、上司や先生は変わっても、
もっと酷い人が変わりに来ただけ、
根本の問題はなにもかわらず、
みたいなこともあるのではないだろうか。
破壊願望は、海に行ったとき、
砂でお城でも作って、一気に蹴って壊してカタルシス、
などで、自分で昇華するとして。
人との関係性のなかでは、
「作ろう」「創ろう」と意識していかねば!
と私は、私自身に言い聞かせたいと思う。
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