Lesson807
きょう自分とした小さな約束を守ろう
「自分との約束は平気で破るよね。
もしこれが、他人との約束だったら?
小さな子供と約束して楽しみにされてたとしたら、
こんなに平気で破れる?」
通勤途中、
ふと、そう突き上げてきた。
「映画の日に映画館で1本映画を見よう。」
直感のようにそう思い立ち、
もう何か月も前から、私は楽しみにしていた。
「できるだけ、ワケがわからない作品を観よう。
わからないということは、きっとそこが、
自分の限界の“ちょっと外”だから。」
娯楽のために観る映画も大好きだけど、
この日はARTに触れようとワクワクしていた。
ところが、12月1日映画の日が近づくにつれ
忙しいから、
いま映画を観てる場合じゃないよな、
という現実が次々押し寄せてきた。
こういうとき、私はズルい。
「行くか、やめるか」の2択にしない。
「いまの時代、家でも映画は観られるんだから‥‥」
「映画の日にこだわらなくても数日延ばしたって‥‥」
すりかえたり、人のためにと正当化したり、
少しずつ少しずつ、存在を消し去っていく。
おおかた映画の日は、
自分の中で消えかかった朝、
それでも体は強く約束を覚えていたのか、
駅の階段をダン、ダン、ダン、と降りてくとき、
「自分への約束は平気で反故(ほご)にするけど、
これが小さな子供とした約束だったら?」
と突き上げてきた。
何か月も前から、ゆびきりゲンマン、
と子供と約束していたことを、
直前でうやむやの無しにしてしまったら、
きっとその子は、
「あーあ、コイツは約束を守らないんだ。」
私に失望するだろう。
度重なると、信頼してくれなくなり、期待もされなくなる。
同様に、自分は自分のしたことを知っており、
「あーあ、コイツはやっぱり約束を守らないんだ。」
と失望し、
度重なれば、自分自身を信頼できなくなり、
期待さえわかなくなる。
表現は、想いをカタチにする行為だ。
想いを言葉や行動で表し続けていれば、
表現筋は鍛えられ、どんどん表現できるようになる。
ほかをかなぐり捨てるようにバスにとび乗り、
私は上映時間81分の異世界を味わった。
結果は、わからなかった。
フランスの女性監督の作品で、
私は、この監督の作品にこれまで、3作挑戦して、
3作ともわからなかった。
映画の送り手の人たちも、
「わからなくていい」と堂々と公言している作品で、
その、わからないっぷり、には定評がある。
映画の終わりには、
肩すかしにも、裏切られたにも似た、
「わからん」がつきあげたのだけど、
ふしぎなことに観終わってからの日々のなかで、
何度も何度も、この映画のことばかり思い出す。
そのたび私は、一瞬で異世界に連れ去られる。
日常のなかで、地味で複雑でたくさんのやることが
押し寄せても大丈夫、現実だけに埋没しない。
「わからん」は、自分の枠組みのちょっと外。
いつでも飛び出せる「ちょっと外」ができたから、
行き来できるから、風通しが良く、私はなんだか元気だ。
「はたしてこんな忙しい時に映画を観に行く意味あるのか」
「音楽など聴きにいってる場合か」と、
人は不安になるけど、
ARTが足りない時、人の内面は疲弊していく。
「ARTに触れたからって、だからどうなんだ」
それは、無意識だけが知っている。
そして疲弊は無意識のところで進行していくと私は思う。
師走。こんなとき、だからこそ!
まるで小さな子供と指切りしたように、
きょう、自分にした小さな約束を守ろう。
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