Lesson808
お母さんの耳
― 先週の「お母さんの耳」について帰省のたびに、
母が人の話を聞けなくなっている。
いま、私が話したことを、
「これはどうするん?」
と、そっくりそのまま聞いてくる。
「いま、言ったじゃん!」
私は、ぷっ、とふくれる。
私がひとしきり話したあと、
ふんふんと聞いていてくれたので、
なにかそこに言葉をくれるのかと思いきや、
自分が話す番がくると、
まったくカンケイない、自分のしゃべりたいことを
しゃべりだすことさえ、たまにある。
しゃべるより、聞き取る方がしんどいのだな。
と私は思う。
人の話を正しく聞き取り、理解・咀嚼して、
リアクションするのは、なかなか骨が折れる。
自分のしゃべりたいことをしゃべっている方が
ずっとラクだ。
八十代の母は、
たしかに高齢でおとろえているかもしれないけど、
それでも、父よりは、ずっと耳がいい。
補聴器だってしていない。
人の言ったことを「はあ?」と聞き返すこともない。
まわりの同世代のなかでは
耳も、言うことも、ちゃんとしていると言われている。
だからこそ、よけいに、
「年をとると、私もそうだが、
ラクなほうに流れてしまうのか。」
とくやしくて、
母がサボっているような、
年とともに身勝手になっているような、
そんな目で見ては、いらだっていた。
先日、
大学の授業で、
学生Aさんが、
自分の耳の病気を題材に
プレゼンテーションをした。
私は、表現の授業をはじめるまで、
耳が聞こえづらい学生が、
意外に多くいる現実に気づかなかった。
もし教師が一方的に話す授業をしていたなら、
ずっと気づけずじまいだったろう。
私の授業は、学生が表現をするので、
学生の方から伝えてくれる。
毎年いると言っていい。
昨年も、片耳がまったく聞こえないと
皆に伝えてくれた学生がいた。
今年も、耳が聞こえづらいと自分のほうから
みんなに伝えてくれた学生だけでも二人いる。
彼らや彼女らは、
一見、なんの不便さも抱えていないかのように
見られる。
利発で、快活で、
世に難関大学といわれる大学にはいれて、
憧れられる存在だ。
Aさんも、
話し方もなんの遜色もないどころか、
むしろ大勢のなかで光っている・優れている表現力の
持ち主だ。
そんなAさんが、
おもむろに取り出したのはスマホだった。
まず、スマホで歌を流す。
女性の歌手が伴奏つきで歌謡曲を歌っているのが、
ごくふつうに、流れてきた。
「これが、私にはこう聞こえます」
と、次にAさんが流した音源に、
私は、一瞬にして、大きな衝撃を受けた。
「コン…コン、コンコン、ポン…」
と打楽器が鳴っているようにしか聞こえない。
とても女性が歌っているようには、
いやもっと、人の声には聞こえない。
さっきと同じ歌なんだと言われて、
聞き耳を立てると、たしかに、ところどころ
そうなんじゃないかと思える部分がある。
だからこそ、よけいに、
私に聞こえている世界と、
Aさんに聞こえている世界、
2つの世界の別物感が際立って迫ってきた。
「音楽にしろ、人の会話にしろ、
私にはいつもこう聞こえています。」
とAさんは教えてくれた。
「メニエール病という病気を知ってください。
目に見えない病気は、理解してもらうのが
とっても難しい。」
というAさんは、
「補聴器をつけたらいいんじゃないの」
「ほんとは聞こえているんじゃないの」
という人々の無理解に遭ってきた。
Aさんの素晴らしい所は、
ツライ自分をわかってほしい、を決して
主題にしなかったことだ。主題は、
「見えないけれど、そこにあるものを認めてほしい。」
いやがおうでも、
母の耳のことを思わずにはいられなかった。
高齢で耳が聞こえづらい人と言えば、
私のなかに、誤った先入観、
目に見えるはっきりした補聴器をつけている。
自分の声も聞こえづらいから大声でしゃべる。
耳に手を当て、「はあ?」と人の話を聞きかえす。
表面的なわかりやすい部分だけで
判断していた。
でも、聴覚の問題は、目には見えない。
聞こえるか、聞こえないか、
の間に、無段階のグレーゾーンがある。
人間が多様なように、
耳が聞こえづらいありようも、多様だ。
そういえば、以前、母は、
「人がしゃべっている音は聞こえているんだけど、
なにを言っているかがわかりづらいんだ。」
とこぼしていた。
だいたいは聞こえていても、
ほんの一部の音域が聞こえないとする。
ほんの一部だからいいだろうと人は思っても、
たとえば、あいうえおの五十音で、1つだけ欠けた長文を
読んで理解できるかといえば、すごく読みづらいだろう。
同様に、ほんの一部でもきこえなければ、
複雑な話を聞き取ったり、
やりとりするのが困難になるのは、
あたりまえのことだ。
でも、母が、「はあ?」と会話の途中で
聞こえない部分を確認しないのはなぜだろう?
母には、母なりの、別のありようで
会話を理解した、とおもっているのかもしれない。
もしかしたら、みんなが楽しく会話をしているのを、
いちいち、「はあ?」とさえぎるのが気が引けて、
耳では聞き取れなかった会話も、
心で聞いて、「うんうん」と
うなづいていたのかもしれない。
いずれにしても、Aさんのプレゼンで
世界の見え方が塗り替わったように、
私と、母の、聞こえている世界のありようは、
きっと、まったく違うはずだ。
目には見えないところで、
ものすごく切ないことも、
ものすごく嬉しいことも、
ものすごく面白いことも、起こってる。
見えないから気づかれず、
理解されないままになっていることが
この世の中にはたくさんある。
見えない想いに見えるカタチを与え、引っぱり出して
通じさせるのが表現だから、
見えない、母の耳の中で起こっていることを、
「どんなふうに聞こえているの?」と、
もっと理解したい、と私は思う。
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