YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson810  訓練と勇気と


「訓練」と「勇気」と、この2つあればいい。
文章を書くには。

考え→書くことをコツコツやって鍛え続けている人、
勇気を出すべきとき、逃げずにパッと出せる人が、
やっぱり伸びている。

なのになぜ人は、
「書くのが苦手」だとか、「文才がない」ことに
こだわるのだろうか?

「自分は書くのが苦手だとわざわざ文章に書く人」
がいる。

そういう文章を見るたびに、
私は、なんともやるせない気持ちになる。

書くのが苦手とわざわざ書いてある文章には、
次のような傾向がある。

まず、
書くのが苦手とか辛いとか、書いているわりには、
その文章自体、あまり手がかかっていない。

次に、
「みんなは文才があってすごいなあ。
 自分には文才がない、だから落ち込む」
というように、できる人との対比で落ち込む。

三つめに、
自分は書くのが苦手だということに
字数をさいている分、
本来のテーマへの記述は短く・薄味になりがち。

そもそも、テーマを真正面から受けとめ、考え、
自分が伝えたいことを書いて伝えなくてはならない
というとき、「書くのが苦手」と書いている
余裕はないはずだ。

かりに書いてしまったとしても、
テーマについて書く字数が足りなくなって削除したり、
伝えたいことを伝えるためには「いらない」と気づいて
取ったり、もできるはずだ。

時間だって、字数だって、
限られているというのに、
もっとテーマ自体に字数をつかったほうがいいのに、

なんでわざわざ苦手と文章に書く?

なんでいま?

なんで人が読むとわかっているのに?

ここにどうも、
ちょっとした「卑怯」が見て取れるのではないか、
と私は考える。

人は勇気を好み、卑怯を嫌う生き物だ。
生きるためにそうなっている。

ことわっておくが、文章教育の現場で、
勇気出さない人より、出す人のほうが圧倒的に多い。

今期受け持っている学生たちだけでも、
私は、その勇気を心から尊敬しているし、

「こんな勇気ある学生がいるんです」

「気の小さい学生が、それでも殻を破って
こんな勇気を出したんです」

とみんなにふれまわりたい想いだ。

表現教育を通して、ありとあらゆる勇気を見てきた
と言っても過言ではない。

しかし、みんながみんな、
最初からいきなり勇気を出せるわけではない。

最初は、
ちっぽけな勇気ひとつ出そうともしない人もいるし、
出すまでに時間がかかる人もいる。

「卑怯」というものは、

悪意から故意に起こすもの
と思っている人が多いようだが、

勇気出すべきときに出さない・出せないことから
必然的にそうなってしまうものだ、と私は思う。

「無自覚の逃げ」、それが卑怯。

その意味では、人間の、
ありとあらゆる逃げパターンを見てきた
と言っても言い過ぎではない。

「私、この文章に手を抜きました」とは、
書けないだろうし、

「テーマについて言いたいことがあるんだけど
勇気がなくて無難なものにしておきました」
と書くのはかっこわるい。

かといって、
手間もかけず、ちっぽけな勇気ひとつ出せず
書いた文章は、「自分以下」になってしまっている。

「自分の実力めいっぱい」で書いた文章とは、
ギャップがある。

そういうときに、
読む人に、このギャップ割り引いてもらう
無自覚の逃げが、

「書くのが苦手」「文才がない」ではないか。

本人はあくまで無自覚なのだ、
故意の言い訳でないことはよくわかる。

でも、
「手を抜いた・勇気出さなかった・自分の本領でない」
ということは、書いた本人も、どこかで察していて、

書いたほうも、読むほうも、
そこに、うっすら卑怯を感じ取るから、

書くのが苦手とわざわざ文章に書いた文章は、
なんとも浮かばれないのだろう。

伝わる文章を書く人は、
どこかでなにかの訓練を積んで、
そこまでたどりついている。

たとえば、保険の営業の仕事をずっとしてきて、
目には見えない「保険」というものを、
お客さまに、言葉で説明し、信頼を得るということを、
日常的に、ずっとし続けている、とか。

あるいは、文章自体は短時間で書き上げた、
手抜きをした人と所要時間は同じだと言う人も、

たとえば、虐待をされて自分の人生を通じて考えてきた
家族問題について書いた、というのなら、
書く前に、もう、十何年も、想い・考え・経験して、
そこから書いているので、思考の練りがまるでちがう。

このように、伝わる文章を書く人は、
考えること・書くことを、
どこかで鍛えられてきて、そこにいる。

「自分は書くのが苦手で、上手い人は生まれつきだ」
という発想をしてしまうと、

上手い人のそこまでの訓練を見ようとしなかったり、
自分自身も、煩わしい訓練に向かうことから
目を背けがちになるので、やっかいだ。

「できる人はすごくて、自分はできない、落ち込む」
というようなことを、人前でわざわざ声高に言うときは、

うすうす、
そこからの訓練が厳しいことを察して、
少し横着をしたいとき、なのかもしれない。

「文才がない、苦手」という言葉は、
鍛えるのが面倒・勇気が出ないとき、
本人の自覚なく、ベンリにつかわれてしまっている。

「自分は書くのが苦手だ」

と人はさらっと言うが、言ったとたんに先入観になり、
伸びる力に歯止めをかける。

「先入観を割る」となったら大変な労力がいる。

むかしの人が「呪いの言葉」といっていたものの
現代版は、このような
成長を制限する言葉かもしれない。

少なくとも5年間、
自分でペースを決めて書き続けるまで、
「苦手」「文才がない」という先入観は持たないと決めて
書き始めたらよいと思う。
かといってうぬぼれていても慢心する。

「今の実力から1ミリでも伸ばす」

という心でいるのが丁度いい。

「訓練」と「勇気」と。

私も、へこみそうなときは、この2つ大事に、
新しい道も進んでいきたい。

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2017-01-11-WED

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