Lesson823
かけがえのないものに代わるもの、の探し方
おなじ眼鏡を7年愛用した。
レンズもキズだらけになって視界がくもっても
それでも好きで使っていたら、
キズでぼやけて文字が読めなくなり、
劣化した眼鏡をかけてる私を見た人々が、動揺し、
あわれむような表情をするので、
あきらめて、新しいメガネをサクッとつくった。
ところが、
日に日に、古い眼鏡の喪失感がデカくなる。
新しいメガネの自分を見ても、
「なんか、ちがう」
が日に日につのる
「これぞ私!」としっくり言えない。
家に帰っても、まだ家に帰っていないような、
メガネに「疎外」されてるような。
やっと、あの古い「眼鏡さん」は、
(親しみをこめて、さん付けで呼ぼう)
私にとって、かけがえなかったんだ、と悟った。
同じものを求めて、
引っ越す前の街の眼鏡屋さんを
7年ぶりに訪ねたら、
とうに廃盤になっていた。
「代わるものが見つからない。」
そもそも私は、古い「眼鏡さん」のどこが
よかったんだっけ?
まず、スペック。
軽くて、曲げても、落としても、
うっかりかけたまま眠って、
朝、私の下敷きになってても、壊れない。
そこで、同じスペックのものを、
同じメーカー同じシリーズを探したが、
7年のあいだに流行はまったく変わっていて、
色もカタチも、よそよそしい。
そうか、色だ。
私は、ぱっと顔が元気に見える
古い眼鏡さんの「赤色」が気に入っていたんだ。
「前と同じ赤色、アカ、あか‥‥」
店員さんが、トレイに、店中の赤を探して
持って来てくれた。
ところが、どうしてだろう、
同じ赤なら、違和感ないと思ったら、
同じ赤だからこそ、よけい、
小さな違いも気に障る。
だったら、同系色のピンクはどうか、と
店員さんが次々すすめてくれたり、
ひとりにしてもらってじっくり探したり、
しかし、どのメガネもことごとくよそよそしい。
このまま、妥協したり、わりきったりして、
私はまた、
「メガネに疎外されて生きるのだろうか?」
あきらめかけたころ、
店員さんが、遠慮がちに、
「お客さんがずっと赤を探しておられたので、
言い出せなかったんですけど、
私はずーっと、これがおススメだと思っていたんです‥‥」
と差し出したメガネは、「ミドリ色」。
色もスペックも、古い眼鏡さんとは、
ぜんぜん似ても似つかない、別物だった。
期待もせず、かけて、鏡を見たら
ぴーん! と言葉にできない感覚がはしった。
「なんかいい!」
ぱっと気持ちがひきたった。
これ、私!
元気が出る。
その路線でいくつもかけたが、
その、「ぴーん!」の感覚がはしるものは、
たったひとつ、そのミドリ色の眼鏡だけだった。
家に帰って調べてみたら、
福井県鯖江市で作っている眼鏡で、
「かけた女性が5歳若く見える」ことを
職人さんが考え抜いてつくったものだった。
その日から、
鏡を見るたびに、あの「ぴーん!」と
気持ちがひきたつ感じがする。
歯を磨くとき、手を洗うとき、
メガネを見ては「ウッシッシ!」と嬉しくなる、
もうメガネに疎外されない。
喪失感もせめてこない。
そうか!
かけがえのないものに代わるものを見つけるって
こういうことか!
似たものを探すんじゃないんだ。
最初私は、「似たもの」を探してた。
同じスペック、同じ色。
だけど、「前と同じ」部分に
とらわれればとらわれる分だけ、
前と比べてしまい、
違いが際立って、違和感がどんどん
大きくなって、
むしろ失ったものの存在が濃くなった。
自分の中から、
「前と同じ」を消し去ったからこそ、
心の声に、素直に耳を傾けられるようになった。
いちばん最初、
7年前に、古い眼鏡さんと出逢ったときは、
「何かに似たものを探そう」
なんていうものはまるでなかったはずだ。
前の眼鏡がこうだったというこだわりもない、
こんな眼鏡がいいというガイドラインさえもない、
まっさらさらの気持ちで、
ただ眼鏡と向き合い、
眼鏡と自分の間にわきおこる、心の声、
ただそれだけ、だったはずだ。
そして、7年前のあの眼鏡さんをかけたときも、
「ぴーん!」と心に響くものがあった。
かけがえのないものは、他ととっかえがきかない。
だからかけがえないのだけれど、
私たちは、それでも、とっかえを探して、
似たものを代わりにしようとして、
似てない部分に疎外されてしまう。
でもそれって、
新しく出逢うもの、そのものの
かけがえなさを見ようとしない行為だ。
うまく出逢えないのもあたりまえだ。
かけがえのないものの代わりを探すとき、
「おなじだけ心に響くもの」
あとはほんとにどうでもよい、
スペックがどうだろうが、
カタチが似てなかろうが、
共通項が多かろうが少なかろうが、
そんなのはけっこう、ぜんぜん、
平気でのりこえられるんだな、
と私は思う。
新しくつきあいはじめたもの固有の
かけがえなさを知っているのだから。
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