Lesson833
劣等感にからめとられない
「そこで、劣等感みたいな問題にしてしまったら、
すべてが終わる。」
そんな言葉が、ふと、わきあがった。
学生の文章表現を1作につき4〜5回丁寧に
読み込んで、1人1人講評を書いたときのことだ。
百数十名分ぜんぶ講評し終わったとき、
「この学生たちは素晴らしい!」と確信し、
視野の拓けと、前に向かった強い力を
学生の表現から受け取った。
そのあとでなぜか、
「劣等感って、マジいらないものだな。」
「少なくとも私自身は劣等感というようなところに
絶対はまらないようにしよう」
と強く強く自分に言い聞かせていた。
世間では、劣等感は、
そんなに悪いものじゃないように扱われている。
「劣等感をバネにする」、とか、
「劣等感をも正直にうちあける人に共感する」、とか
好意的にとられることさえある。
私自身、才能あふれる人の前に出たり、
人にめちゃめちゃ好かれている人と並んだりするとき、
無自覚につい劣等感を口にしていることがある。
だけど百何十人もの若者の、
前に向かった文章表現を堪能したあとに、なぜか
「劣等感にからめとられたら終わり」
だと直感した。
私にはなぜか劣等感が暴力的にうつるのだ。
たとえば会社で、
全員1人1つずつ案を出そうと決めて、
前々から準備していたとする。
で、当日、自分の番が来たときに、
「頭のいい人ばかりで、私には何も出せない」
と泣き出すようなカタチで、
劣等感をあらわにする人がいたとする。
ほかの人たちも、そんなに自信満々というわけではない。
それでもなんとか1案考えてきて、
人によっては、恥かくかもしれないけれど、それでも
自分の畑から生えたぺんぺん草のような案でも
出していこうとしている場で、
一瞬で空気をまずくさせてしまう。
クリエイティブに向かってひらかれていた場の空気も、
案を出すまでの個々の工夫も、
発表にむけて出す個々の小さい勇気も、
その涙が一瞬でなぎ倒していく、と私には感じられるのだ。
「そうか!自分は被害者、頭いい人たちに傷つけられてる
と感じているんだな。」
劣等感は攻撃性につながりやすい。
一般に劣等感は、
自分ひとりが思うぶんにはだれも傷つけないし、
むしろ敗北宣言、平和的だし、人に優越感を与える、
と思われている。
だけど、「自分が劣る感じ」にさいなまれている人は、
優れた人からつねに攻撃されているような感じ、
一緒にいるだけで傷つけられているような感じを
抱きやすい。
攻撃されてる感が溜まれば、反撃に転じやすくなる。
自戒をこめて、人が劣等感を持ち出す時、そもそも
「だれが優秀か、だれが劣っているか?」
その問いが重要じゃない場がほとんどだ。
「その場はどんな問いを取り上げ、
何を目指しているのか?」
そこに意識を寄り添わせる必要がある。
それに、その問いはつまらない。
優劣の単純なモノサシでは見えてこないもの、
優劣のモノサシをとっぱらって広く自由な目で、
自分も相手も生かさないと、つかめないものがある。
劣等感を持ち出すそばから、
「優か、劣か」の2択になり、安直に答えが出てしまって、
そこで思考が止まる。
それゆえ「逃げ」に用いられやすい。
これはあくまで、自分は、だけれど、
劣等感につかまりそうになったら、
「うらやましい」「私もそうなりたい」
あるいは「私は別のこの方向で努力する」というような
本心にできるだけ早く出てきてもらい、
そのうえで、
場の問題意識に寄り添いたい、と私は思う。
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