YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson834
 読者の声―劣等感にからめとられないについて



「劣等感をバネにする」などと言われ、
ふだんあまり悪くは言われない「劣等感」だけど、

私は、表現教育を通じて人の内面を多数見てきて、

そこで思考停止してしまう、
未来も他者も閉ざしてしまう、

劣等感こそいらないものではないか?

と思いはじめ、
先週ここに書いた。

読者はどう感じたのか、
さっそくおたよりを紹介しよう。


<そこを踏ん張って>

誰しも自分が「劣っている」ことを認めるのはつらいこと。

だから自分でも気付かないうちに
「劣っているかも」と感じてしまうと、
正面から認めることを飛び越して、

「あの人は才能があるから」とか
「自分は苦手だからさ」と

大げさに振る舞って、

「出来なくて当然。だからわたしは悪くない。」
と無意識の自己防衛に入る。
この状態ではわたしの問題意識は
「わたしは悪くない」にしか関心が無くなり、

場の解決など二の次、三の次になってしまう。

そこを踏ん張って、

「そうだよなぁ。そこ、自分は劣っているよなぁ。」
と事実を見つめることが出来ると、

「弱った、困った、恥ずかしい。
こことここについては、どうやら自分は劣っていそうだぞ。
でもそれはもうしようがない。
いま、この状況で自分にできることは、何がある?」

と、現実的な問題解決へと
意識を向けることが出来るように思います。

劣っている(と自分が思っていること)を、
ただの『事実』として認識することが出来ると、

その先の問題解決へ意識が向きやすいように思います。

ここにプラス『感情』がうまい具合に加わると、
「なにくそ!」と発奮したり、
「恥ずかしいこともうちあけてくれた人」として、
良い推進力になるのではないでしょうか。

「だれが優秀で、だれが劣っているか?」の問いが
つまらないということ、自分もそう思います。
目指す世界を実現するために、

いまこの状況下から何が出来るか。

何がこの状況を進めるか。
(白井)


<わたしは>

劣等感に陥るわたしは、ないものねだりだ。
(するめ)


<坊ちゃんは、なぜ?>

すでに劣等感にハマってる者からすると、
ちょっと拗ねてケチを付けたくもなります。

劣等感を抱くと人間関係も優劣で見ようとする。

何より劣等感を抱いたら、
人の優しさを素直に受け取らなくなります。

自分より優れてる人に優しくされるのもイヤ
劣ってるヤツに優しくされるのも
自分がバカにされてるみたいな感じ。

『人間失格』の主人公はそんな感じと私は思います。

私は沢山の失敗を重ねてきた。

太宰治は『人間失格』で、
手記の最初をこうつづった。

「恥の多い生涯を送ってきました。」

対して夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭は
この言葉で始まった。

「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」

NHKで茂木健一郎さんが
坊ちゃんの面白さについて、

「坊ちゃんは、失敗ばかりの青春なんだ。
それに坊ちゃんは必ずしも恵まれてる訳では無いんだ。
余り父母に愛されてなかったしね。
『坊ちゃん』は失敗ばかりの青春小説なんだ」
と、確かそのようなことを話してました。

青春とは本来失敗ばかりのもの。

そんなに爽やかなもんじゃない、
もっとどうしようもない、ドロドロした感情を
本来もってるものだと定義した人がいて、

その通りだよな、と。

もう少しドロドロした青春小説を書こうと思えば
書けるはずなのですが、そんな風に漱石は
描かなかったんですね。

この二つの本は、
どちらも失敗ばかりの青春、

でも、こうも色が全然違う。

そこに劣等感との関わり方のヒントが
あるような気がします。
(マニマニア)



少女のころ大の仲良しで、

でも大人になるにつれ、
だんだんと格差が生じてくるというか、

どんどん容姿も内面も磨きがかかって
きれいになっていく友だちに劣等感を感じて、

友だちのほうも
さえない私をうとましく感じはじめたのか、
冷たくなり、

どちらからともなく疎遠になってしまった…。

という友達に何年もたって再会して、

「実はあの頃、キラキラ輝くあなたに
劣等感を感じて…」

と、いまだから言える話を堂々とすると、

「なに言ってるの?!
ずーっと劣等感感じてたのはこっちよ!!!」

と言われ、
いったいあなたみたいに素敵な人が、
こんな私のどこにどうやって劣等感が抱けるというの、
嘘言わないでよと、
よくよくお互い、正直にうちあけていくと、

本当におたがいがおたがいに劣等感を感じてた。

それが疎遠にさせていた、ということがある。

相手に見えていた自分のいいところは、
自分に見えず、

自分に見えていた相手のいいところは、
相手自身には自覚できておらず、

おたがい相手の目になって
自分を見ることができたらよかったのに。

例えば、兄弟、姉妹、友人など
身近に「輝く人」がいた場合、

劣等感に落ち込む人と、

自分が最大のファンとなって応援する人がいる。

劣等感を戸板返しに、応援できる人、
強いな、と私は敬意を抱くのだが、

でも、それ以上に引かれるのは、

「さっぱり!」としている人だ。

劣等感に落ち込みもせず、
かといって賛美者になるのでもなく、

「美人の妹は、妹。私は、私。」

「友達はたしかに何でもできる。
でも、一緒にいて苦じゃない。
どちらかと言えば、ラッキー!」

と例えばそんなふうに、

「さっぱり!」

としている。
そういう人に私がなりたい。

今日の最後にこのおたよりを紹介して終わろう。


<自由に夢を描くには>

違いが差になり
選ばれる人と選ばれない人がうまれ
選ばれなかった思いが行き場をなくして漂う

僕らもいつしか選ばれた方に寄り添うようになる
さも選ばれた方が正義であるかのように

そこを見つめる眼差しは
劣等感だと思います

劣等感は時に気力を吸い込み
夢見る力を失わせる

幼児の時から競争にさらされている子どもたちに
劣等感から夢を見させないようにするには
どうしたらよいのか

劣等感から見る夢もいつしか叶わず、夢見る力を失わせる

みんなが自由に夢を描くためには
競争ではなくて共同のつながりを実感し
共同体のために自分のできること一つ一つを
信じられる力を持つことができることだと思います

成功者の言葉に踊らされるのではなく
隣にいる人の思いを言葉を味わいたい

劣等感があったら出来ないのかもしれません
(icuteachersband)



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2017-07-05-WED

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