YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson850
  言葉のおすそ分け



だれかが、だれかを大事に想い、
繰り出した言葉に愛情がこもる。

ぐうぜん、そんな言葉に出くわしてしまったら、

自分はまったくの第三者で、
自分に言われたわけではないのに、

言葉にこもった愛情を、
「おすそ分け」のようにいただいてしまう。

じーん、としたり、
ほっこりしたり、
生きるチカラがわいてきたり。

だから、

日々、だれかのことを大事に想って、
丁寧に、愛をこめて、
言葉を繰り出す人のそばで、生活できるなら、

おすそ分けの愛情だけでほっこり生きられる。

逆に、

日々、だれかを見下し、嫌い、疎外する人の言葉を
そばで聞いて過ごすのは、

自分に言われているわけでなくても、
たとえ自分だけ大事にされていたとしても、
とばっちりみたいに嫌悪やさげすみが、おすそ分けされて、
自分まで殺伐と、目にする世界もサツバツとしてくる。

どんな言葉にまみれて生きるか、
どんな言葉が飛び交う場所を選択して生きるか。

「あなたはどんな言葉にまみれて生きていますか?」

言葉は想いの乗り物だ。

目には見えない想いを形にし、
相手に届けるために、
人は言葉という道具を編み出した。

初心者でも、
どんなに想いを言葉にしてこなかった人でも、

段階を追って自分の言いたいことを引き出し、
相手を理解する具体的なアプローチを重ね、
相手側から自分を見て、考え抜いて、
メッセージを書き上げると、

言葉に想いが宿る。

私の表現講座でも、

そうして生徒さん全員が、
大切な人に想いを伝える文章を書き上げることができる。

おかあさんが子を思う文章は、
やっぱり愛情深いなあ、と思って聞いていると、

おとうさんが子を思う文章も深く、優しく、
家族の愛情にまさるものはない、と思って聞いていたら、

会社で先輩が後輩を思う気持ちもぐっとくるし、
友人を思う気持ちも、
恩師を思う気持ちも、

やっぱりだれかがだれかを想う言葉は、
かけがえなく素晴らしい。

そうして生徒さんがだれかを想うメッセージを朗読するのを
1人、また1人‥‥と聞いているうちに、
どうしようもなく満たされていく自分がいる。

いくら、「自分に向けられた言葉ではない」
と自分に言い聞かせ、頭は理解しても、
心は勝手に愛を受け取って、勝手にほっこりしている。

何十人と、生徒さんの朗読を聞いた後は、
帰り道の風景まで違って見え、
いつになく愛おしく、いつになく優しいまなざしの
自分がいる。

「言葉は想いを届ける対象を限定できない。」

いったん「これだ!」という言葉が見つかって
想いを乗っけてしまったらさいご、
言葉は対象を選ばず、だれかれおかまいなしに、
その想いをまき散らしてしまう。

これが言葉の長所でもあり、欠点でもある。

「これは私の子供にだけに贈る愛の言葉だから、
聞いた人、読んだ人、反応しないでよ」

ということが言葉にはできない。

言葉を耳にした人、目にした人、
やっぱり愛をおすそ分けされてしまうし、
言葉にならないあたたかいもので満たされていく。

小さい子供を育てている友人の家に行って
とくに友人と何を話したとか、
何を伝え合ったわけでもないのに、

帰る道々、自分がほっこりしていることがある。

友人が、子供を想ってかける言葉のはしばしに、
愛があり、それが私にもおすそ分けされてしまったんだ、
と考えると、がてんがいく。

逆に、

これまで表現教育を通して、
老若男女のたくさんの生徒さんの文章に、

「両親の喧嘩がつらい」
「母親がおばあちゃんと、嫁と姑の争いをするのが
耐えられなかった」

というようなうったえを数多く見てきた。

それらの中には、
「両親の仲は悪くても、父も母も自分には優しかった」とか
「嫁と姑の争いはしても、私は大切に育てられた」とか
いう人もいて、にもかかわらず耐え難かったという。

対象を限定できない言葉の性質を考えると無理もない。

夫婦喧嘩のつもりで繰り出した言葉が、
関係のない子供に憎しみの想いをおすそ分けしてしまう。

嫁にだけ、姑にだけ、
チクッと刺したつもりの毒の言葉が、
ほかの家族をことごとく刺して、心を乱してしまう。

多数の人に向かって話しかけているときに、

ある人々だけ褒めて、
別の人々だけけなす、

ということはできそうなんだけれど、
実際、頭で考えたらできるし、そうなんだけど、

言葉は想いの乗り物と考えると、

いい想いも、黒ずんだ嫌な想いも、
結局、いっしょくたに、その場にいる人に
ごちゃまぜで届けただけ、
ということもあるのかもしれない。

生徒さんが読み上げる大切な人を想う文章は、

おすそ分けされている私も、
このことばだけでもしばらく生きていける
とおもうくらい愛のパワーがある。

人が愛が無いと生きられないとしても、
どんなに愛に干されて生きている時期の人がいたとしても、

こういうだれかがだれかを想う言葉のおすそ分けで、
愛の小腹を満たして、どうにかこうにか、
食いつないでいけるんじゃないか、と希望がある。

言葉は、たしかに人の想いを運ぶし、

言葉以上の想いを乗せることができるし、

受け取る人も、
字面にしたらほんのわずかな言葉に、
言葉以上の、言葉にならない想いを受け取ることができる。

これは本当だ。

だから、私たちは、生きる環境として、
「どんな言葉が行き交う場所か」を選んでいいのだと思う。

愛や、創意や、ときめきの言葉が
飛び交う場所に行きたいし、

憎悪や攻撃の言葉から逃れたい。

でも、それよりも私が住みたくないのは、
言葉になんの想いも乗っていない場所。

ペラペラの記号のような言葉が行き交う場所だ。

自分の発する言葉もまた、
おすそ分けを配っていく、
環境をつくっていく、
そう考えて表現して行こうと思う。

「あなたはどんな想いを言葉に乗せて話していますか?」

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2017-11-01-WED

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