YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson859
      反対意見の尊重



「反対意見を言ってくる人=敵ではない。」

いろいろ言う人の中には、
その問題への関心が高かったり、愛情があったり、
自分の足りない視野や知識を補ってくれてる人もいる。

なのに、
反対意見を言った、ただそれだけで
SNSにあげつらい批判してしまうと、

その瞬間、

まだ敵ではなかった人を、
自分自身で「敵」にしてしまう。

誰から見ても
非の打ちどころのない正しい事をしているのに、
いまいち支持されない人がいる。

先日も、SNS上でそんな人を見かけ、
ひっかかってずーっと発言を目で追いながら、
モヤモヤと考え続けていたら、はっ、と。

「反対意見の尊重」

という言葉がわきあがった。
この人は、反対意見の尊重が足りてないと。

反対意見を持つ人に、いちいち噛みついている。

「自分は正しく、事は深刻だ。
苦しんでいる人が多数いるのに、そんなことを言うな」と。

直接反対してくる人になら、まだしも、
SNS上の1人1つ分のスペースを守って
自分の意見を言ってる人にまで、つっかかって、
撤回を求めたり、反撃している。

だけど反対意見を述べることは、
デマや中傷を言うこととはわけがちがう。

「表現の自由」がある。

どんなに正しい目的でも、
その発言に苦しむ人が想定されても、
だからといって、
人の発言の自由をさまたげていいってことにはならない。

発言を封じられた人間は、苦痛を感じ、
封じた人間に協力する気もちも失せていく。

それに、はたから見ていると、
反対意見を言ってる人=敵じゃないのだ。

その人に欠けている視点を補おうと
していたり、

経験してきた領域がちがうから、
そのやり方には反対してるけど、
その問題を解決したいって気持ちは同じだったり。

本当の敵はもっと他にいて、
そこと戦わなければならない、
こんな小競り合いをしている場合じゃなかったり。

にもかかわらず、
反対意見を言う人を1人でもなくしたいと、
次々、噛みついていたら、

「おおコワッ! 深刻な問題だから、
ちょっと何か言っても、すぐ噛みつかれるな、これは。
もう、この人にも、この問題にも、触らない方がいい。」

と周りがピリピリする。

ピリピリムードをつくってしまったらおしまい。

どんな善いことでも、
悪く言う人がまちがってても、だれかを守るためでも、

自由にものが言えない窮屈さに、
人は離れていくし、寄りつけなくなる。

いちばん怖いのは、周囲の「無関心」だ。

反対意見も関心の高さととらえ、
言わせておく寛容さも、ときには大事。
そこから議論が広がったり、
協力者が集まることさえある。

反対意見を殺さず、共に生き、共に栄えていく道だ。

なにか新しいことを浸透させていくためには、
適度な「ゆるさ」がいる。

自分だってもとからその問題にくわしかったわけではない。

無知な頃は自分も相当トンチンカンだったはずだ。
だから、反対意見も、ツッコミも、トンチンカンも、
自由な空気で、
正負両方の関心をミカタにつけていく手もある。

反対意見を持つ人を、
敵と見るか、
ミカタ予備軍とみるか、
本当の敵に別ルートで立ち向かってる人と見るか、
永遠に交わらないけど尊重すべき人と見るか、
そのとらえ方で、
ぜんぜん違った関係性が編まれていく。

「反対意見の尊重」ということを、
自分の考えに自信を持つほどに心得なければならない。

人の表現の自由をさまたげてはならない。

自分がこの人生を通して切実にそう想うように、
相手もまた、その環境と人生において
切実にそう想うのだから。

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2018-01-17-WED

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