Lesson862
心に非常食を
愛に飢えると、人は、
睡眠や食事を干され続けたときと同じように、
キレやすくなる=「攻撃性」を帯びる。
ひどくなると「殺気」立つ。
攻撃性は、ハケ口を求める。
人に向けるか、自分に向けるか。
自分に向けるとは、
自傷行為や、
試験を白紙で出してしまうなど、
自分で、自分のカラダや人生を傷つけることだ。
私には、学生のころ「てんちゃん」という友達がいた。
てんちゃんは、
自傷行為をしたり、
お酒を大量に飲んだり、
好きでもない人に身をまかせたり、
試験を白紙で出したり、放棄したり、
あげく、せっかく入った良い大学を辞めてしまった。
(プライバシーに抵触しないよう
仮名、改変を加えている。)
なぜ、てんちゃんが自暴自棄に走るのか。
当時の私にはわからなかった。
容姿に恵まれ、頭もいい。
異性からも同性からも愛される。
ご家族も健在で、お金にも余裕がある。
なのになぜ、なんのとくにもならない、
自分の人生へのイジメみたいなことをするのか。
時がたって、
自分なりに愛に飢え、攻撃性がつのるような
人生の時期をのりこえて、
いまはわかる気がする。
てんちゃんは「愛がほしい」と言ってたのだ。
でもなぜ、だれからも愛されるてんちゃんが、
愛に飢えるのか?
だれからも愛されて生きてきたからこそ、
愛に飢えたのではないか。
ずっと愛に干され気味で生きてきた人より、
ずっと注がれて生きてきて、突然干された人の方が、
ツラがっている。
自分で愛を取りに行く方法がわからないからだ。
このコラムで何度も紹介したが、
本や音楽など作品からも愛を補給してしのげる。
家族や恋人のような大きな愛を得ることが
ムリな状況でも、
止まり木のような、ささやかに心触れあう人間関係を、
ちょこっとつくって、暖を取ることもできる。
少し潤ったら、人に優しくしたり、循環させたり、
愛を増やしていくこともできる。
自分でつかみにいかなければ誰も与えてはくれない
という状況で生きてきた人は、
どっかなにかで、、ちょこちょこと愛を摂取して、
飢餓になってしまわないようなことを自然にできるし、
いよいよ攻撃性がつのって殺気立ったとき、
ロックなどの音楽や芸術で昇華する感覚も身に着けている。
だけど、たとえば、
物心ついたころから無償の愛を注ぎ続けてくれた
おばあちゃんが、突然亡くなったとかいう人は、
きのうまでなにもしなくても、
勝手に愛は供給され続けてきたのだし、
それを突然、干されるからとてもつらい。
自ら取りに行くカタチに切り替えるのもしんどい。
まわりに食べ物があふれかえっていても、
偏食があれば飢えるように、
てんちゃんは、、
誰の愛でもいい何でもいいではなくて、
欲しい「この愛」に干されて
苦しかったのではないだろうか。
自分では何が起きているかわからず、
攻撃性をつのらせ、純粋だから人に攻撃を向けず、
自分に向けて、ちょっとずつ破滅方向に傷つけていた。
「心に非常食を。」
と思う。それは本でも、音楽でも、芸術でも。
愛とはなにか、むずかしい。でも、
この本を読んだ後は、自分が水を得たようだ、とか、
この人とふれあったあとは、心があったかいとか。
大ごとになる前に、
キレやすくなった時に、愛の小腹が減った時に、
小さく、ちょこちょこ自分を潤すなにかを
自分でわかっているといいんじゃないだろうか。
表現教育を通して、
そうして自分を潤してのりこえてきた人を多数見てきた。
愛に干されても、だいじょうぶなのだ!
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