Lesson874
最後まで「表現したい何か」を手離さない
表現する人は、
どんな心をかき乱される状況でも、
絶望的な状況でも、
表現する以上、最後まで、
「表現したい何か」
(伝えたいもの、と言い換えてもいい)を
手離しちゃだめだ。
それ失ったら、
繰り出されるものは、ただの「自我」。
虚しい「自意識」のオンパレード。
しらずしらず「肩に力が入ってしまう」ことがある。
例えば、大舞台で、たくさんの人の前で、
プレゼンテーションをしなければならないとき。
例えば、天才たちや、いまをときめく有名人が、
ずらーっと並んだ中、自分がいちばん下っ端で、
同じテーマで、文章を書かねばならないようなとき。
「りきんだらダメだ」と思っても、りきみ、
それに気づいても、自分でりきみを解除できない。
先月、私も、「りきみ」の回路にはまっていった。
ここいちばんの大舞台で書く、というとき、
まったく無意識のうちに、
「いいとこ見せねば」の心と、「恐い」の心が働いている。
で、ほんのちょっとだけいつもよりかっこつけた言い回し、
を自分でも気づかず書いてしまったりしている。
すると、文章は魔物、
ほんの1言が、次の言葉に影響し、段落の、文章の
雰囲気をガラリと変え、さらに人目を意識した表現を呼ぶ。
すると、なんだかわからないけど、「ちがう」、
この方向で書いても全然出口に出られない感じがしてくる。
体が妙に疲れる。筆は進まない。時間が刻刻すぎる。
どんどんどんどん自信が剥がれ落ちていく。
すると、いま自分が握っている「伝えたいもの」が
どんどんどんどん、「ちっぽけ」に見えてくる。
ここで、ルートは2つに分かれる。
1つは、
「自分が伝えようとしているものはちっぽけだから、
かさ増しして大きく見せよう、
あるいは、立派なものに変えよう」
とするルート。
もう1つは、
「自分が伝えたいものを、飾らず、偽らず、伝えぬく」
ルート。
私には、小さいけど切なる「表現したいもの」があった。
「どんなにちっぽけでも、これを書ききろう!」
確証はないし、自信は剥がれ落ちたままだけど、
そう決意して、書き始めたら、
バサバサと、いらない文章や、気負った言葉が、
面白いほど、文章から、剥がれ落ちていく。
剥がれ落ちて、
文章はどんどんささやかでシンプルになっていくのに、
こんどは自信がぜんぜん落ちない。
逆に、文章が削られてささやかになればなるほど、
ムクっと、腹の底からチカラが湧いてくる。
そこからは一気にかきあがった。
編集者さんからは、書き手冥利につきるような
ここ何年もきいたことがないような評価をいただいた。
心地よい疲労感と充実感に、横になっていると、
確かに、書いているとき、体の奥からいつもと違うチカラ、
潜在力みたいなものが、むくっと湧き出ていたな、
という感覚があった。
その時点ではまだ言葉にできない「何か」、
でも、そんな表現したいもの1つあれば、
体もそれに向けて生産モードに変容するし、
文章からも余分なものが全部剥がれ落ちて、
全ては、その「何か」に従っていくんだな、と思った。
大舞台だ、大先生たちと一緒だと、
謙虚ぶって表現を下りてしまう人がいる。
本人、「うまく自分をさらさず済んだ」「恥を回避した」
と思うかもしれないが、そういう自我がすべて、
言葉となって読者には伝わっている。
伝えたいものが何もない話、
途中で表現したいものをあきらめた文章は、
虚しい自意識のオンパレード。
自分の伝えたいものを伝えきって、
それがささやかなのは、恥ずかしいことではない。
表現したいものがある人を、人は軽んじない。
「表現する以上、
最後まで表現したい何かを手離してはいけない」
今回はそれを手離さなくて本当によかったと私は思う。
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