YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson879
   ゴールをイメージする



グチャグチャと、自分でも何を言いたいのか
わからなくなってしまった時、
話すにしろ、書くにしろ、

「ゴールをイメージする」

といい。何も考えずともうまくいけばいいのだが、
混乱したとき、何も浮かばないとき、
ほんとうに助けになる。

これを改めて感じたのが「日大アメフト選手の会見」だ。

コミュニケーション技法のみに集中してみる。
事件を語るつもりも資格もない私だからだ。

あの会見にはゴールがあった。

「被害選手に謝罪したい。」

そこに向け、本人と親、弁護士が一つになった。
謝罪に必要不可欠だから実名と顔を出した。
事実をつまびらかにするのが償いの第一歩と、
正直に話した。
ゴールとズレる釈明・糾弾は控えた。

ここに多くの支持を得た理由を、私は見た。

編集された一部をニュースで見た人とは
印象が異なるかもしれないが、
リアルタイムで、提示された資料も含め、
最初から最後までTVで視聴して、そう感じた。

会見のゴールは「謝罪」。

「ケガをさせてしまった相手チームのQBおよび、
そのご家族、関係者に謝罪をしたい。」

ゴールを1点に絞り、他の一切を捨てた。
だから当該選手、その親御さん、弁護士の3者は、
会見まで準備期間も短く、周囲が混乱した中でも、
決断しやすかったと思う。

「学生が、実名・顔出しで記者会見をする」

これも、ずいぶん勇気が要ったと思うし、
勇気も素晴らしかったが、

単に「実名・顔を出すか、出さないか?」

で悩んだのではなく、

「謝罪をするために、名前と顔をどうするべきか?」

とゴールから考えて、必然的に決まった。
「顔も名前も隠して謝罪ができるわけもない」からだ。

「いつ・だれが・どうしたという事実を
すべて明らかにした」

これも被害を受けた側は、
本当のことを知りたいと願っているし、
事実を明らかにするのが償いへの第一歩と、
ゴールから考えれば明らかだった。

正直といっても、
「釈明」や「糾弾」のための正直とは方向が大きく違う。

「釈明」は、「私の事情をわかってくれ」だ。

当該選手は、釈明をしなかった。
自分の辛い立場をわかってもらおうとはせず、、
ネットで叩かれていても、誤解を解こうともせず、
よけいな感情を吐露も、泣くことも、ひかえた。

「糾弾」とは、「この人が、この組織が、悪いんです」と
問いただし非難すること。

当該選手は、謝罪に必要なことだけ答え、
それ以上1ミリも、組織や上を悪く言わなかった。
記者の質問にも、答えた方が自分に有利なときでも、
「謝罪に来た自分が言うべきことではない」と
口をつつしんだ。

なによりも謝罪の根本である、自らの罪を積極的に認め、
反省の気持ちを明らかにして、はっきりあやまった。

組織に都合の悪い発言もせざるを得ないときも、
組織を糾弾するためではなく、かばうためでもない、
組織での自分の立場を保身するためでもなく、
そういう一切を手ばなして、

ひたむきに謝罪というゴールに向かっていった。

当該選手は、組織への保身を手ばなして、結果、
もっと大きな「社会」という組織に招き入れられた。

会見にはゴール、もっと言えば「志」があった。

これは、会見のために会見をひらき、
結局何をしようとしたのかわからなかったものや、
糾弾の会見をひらいて、
ブーメランのように非難が戻ってきたものや
組織への保身を図って、もっと大きな社会という組織から
疎外されたものと、対照的だった。

会見をひらくことはそうそうない私たちも、
メール1通、書くことはよくある。

ただ謝ろうとして、でもつい、
自分の釈明やら、辛い気持ちの吐露を
だらだらしてしまったことはないか。
糾弾するつもりもなく、でも書いていて、
ついエスカレートして、誰かを責めたり、
組織を批判したり、
ということはないだろうか? そんなときは、

「この文章のゴールは何か?」

一度イメージしてみてはどうだろうか?

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2018-06-13-WED

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