YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson880
 書いて疲れる時は、どこか嘘をついている



書くことは本来たのしいものだ。

ラクではないけど、書いて、
想いを表現することも、
コミュニケーションすることも、

本来歓びの深い行為だと、私は思う。

でも、なぜか書くそばから妙に疲れ、
そこをおして書き上げても全く昇華されない、
苦痛しかない、そんな時、

人は、どこか嘘をついている。

先日もそんなことがあった。

いま140名の学生の作品にコメントを返している。

1作品あたり、最低でも4〜5回は目を通し、
1人、1人、私の感想を伝える文章を書く。

1コメントに1時間かかることもざらだ。

書いては送り、
また次の作品に目を通し、書いては送り、
これを140名分、
3年間続けてきた結果、

書いてるときの自分の体調の違いがよくわかる。

先日書いていて、いつもと違う疲れを感じた。

書くそばから体がこわばる、
不自然で、嫌な疲れ。

「嘘をついてないか、私?」

と経験上思った。妙に疲れるときは、
本心ではないことを書こうとしている。

胸に手を当ててみても、嘘などどこにもない。

学生には絶対嘘をつかない、これを守り通している。
それに、嘘を書けば自分の表現がダメになるから
ふだんから決して嘘は書かない。

気を取り直し、書きはじめるも、
もう、肩、背中がこわばり、妙な疲れが襲う。

色々角度を変えて、書き改めても
妙な疲れはつきまとい、ひどくなるばかり。
そうしているうち、はっ、と浮かんだ。

「そもそも、私はこの文章が読めてないのでは‥‥」

そんなはずは! そんなはずは!
そんなはずはない!
と強く打ち消す私がいた。

読解には自信があった。

大学の専攻というよりむしろ、
編集者の16年間に、
叩きあげられ、鍛え抜かれて、克服した。

自分自身が書き手になってからは、

自分の文章が読めてない人は、
一発でわかるので、
よりいっそう、心して、
時間をかけて、何度でも、
学生の文章を深く正しく読むようになった。

書いた本人から、
本人以上に真意をつかんでくれた
と言われたこともよくある。

書いた本人から、
「まさにそこが書きたかった!
こんなに深く読み取ってくれるとは」
と言われるくらいまで真意をつかむのが、
コメントを返すスタートライン、
と私は、私に厳しく課している。

「私に限って読みとれない文章はない。」

くらいに思っていたんだな、
そんな万能あるはずないのに、
思い込んでいたことに、初めて気がついた。

その作品は、何度も何度も読み直し、
だいぶ深くまで理解できていた。

でも最後の最後のところ、
「これだ!」という核心には、どうしても至らなかった。
そこが私の限界だった。

そのことに自分で気づかぬようにしていた。

私は、たぶん、生まれてはじめて
学生にこう書いた。

「あなたがこの作品を書いた真意が、深遠で、
私には充分にたどりつくことができなかったので、
あなたからみれば、
見当はずれなことを言うかもしれないが‥‥」

文章のはじめに、決して言い訳をしないと
決めている私が、
「見当はずれなことを言うかもしれないですが‥‥」
と言い訳をせざるを得なかったことにも、
敗北感が押し寄せた。

自尊心がガラガラ音を立てて崩れる。

「このコメントはいいものにはならないだろう。
最後の最後ではわかってもらえなかったんだと
学生はがっかりするだろう。」

それでも、いまの私は、正直からはじめてみるより
他にないのだ。

「正直に、正直に」

と自分に言い聞かせながら、書き進めた。

「それでも私が理解した限りで、この作品には
とても響くものがあった、それは‥‥、」

これは本当である。
私は、偽らざる想いを、
正直に、相手の気持ちを考えながら伝えた。

不思議なことに、こんどは体が疲れない。

書き上げたとき、ぐわっと腹から歓びが
こみあげた。

「自己満足ではないか?
自分が学生だったら、このコメントをもらって
うれしいか?」

厳しい目でチェックしても、間髪入れずそう想えた。

今回の件から改めて思った。

「書いて疲れる時は、どこかで嘘をついている。」

でもこの「嘘」が、
自分の欲得のために偽りを書くというような、
わかりやすいものじゃないから厄介だ。

もっと無自覚な、自分の「先入観の壁」のようなもの。

自分ではわかってる、
と思って書き始めて、実はわかってない。
自分ではできる、と思って書き始めて、
実はできない。
その逆もある。
ともかく、

そのまま書きはじめると、無自覚の嘘になる。

例えば、相手を喜ばせようと思って
なにかを書き始めて、
実際、相手が歓びそうなことを書き連ねるんだけど、
妙に疲れて、疲れて、しかたがない、
という人は、

本心ではそう想っていないか、または、
自分には相手を歓ばす力がないのに、
つまり、できないことをできると思い込んでしまったか。

自分に無いものは書けない。書けば嘘になる。

「では、なにも書くなと言うのか?」

そうじゃない。
正直になればいいのだ。
正直になったら、自分の想いの中に、何かしら
伝えたいことはある。

「自分にとって何が正直か、何が嘘か。」

無意識のところまで来ると、複雑で、
自分ではなかなか気づけないから苦しい。
でも、一つ言えるのは、

正直になるのも訓練。

たくさん書いて、妙な疲れも経験して、
そこをブレイクスルーするために試行錯誤して、
体の感覚として、正直になるすべをつかんでいく。

そうすれば、よりはやく、深く、正直になれる。

「正直になれば書くことは心底たのしい。」

と私は思う。

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2018-06-20-WED

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