Lesson907
「試す」と「育てる」
「試す」と「育てる」は、教育といっても違う。
審査や試験は、
どのくらい力がついたか正確に測るため、
生徒に自分でやらせる。
一方、育てるとは、
教師が知識・方法・技術を「伝授」し、
できるようになるまで「訓練」する。
育てず生徒を試してばかり、ダメ出ししては
怒ってる人もいる。
ある日、若い人がひどく泣いているのを見た。
そこは学校ではない。けれど、
教える側のおとながいて、熱のある指導をしていた。
おとなは、どこがいけないか、なぜいけないか、
どうしたらいいか、懇切丁寧に教えている。
具体的だし、的を得ているし、愛情もある。
ではなぜ、若い人はこんなに泣くのだろう?
気になって数日考えて、わかった。
「“試す”からだ。」
若い人は、
事前に何をやるか知らされない。
当日いきなり指示され、いきなりやらされる。
だから、我流というか、
その場持ってる知識と経験・感覚で、
自分なりにやってみるより他はない。
で、できないとダメ出しされる。
「あなたのここがよくない。本来はこうすべきでした」
と、そこでやっと、知識や技術を教えてもらえる。
「まず試す → 評価・ダメ出し → 育てる」
この順番だと、泣く。
私は、まず試すのが悪いと言いたいのではない。
泣かすことの是非を問いたいのでもなく、
この順番だと、泣いてもしかたがない、と言いたい。
若い人は、自分の持てる能力とセンスの勝負になるので、
できないと、自分自身を否定されるからだ。
文章指導においても、
まず生徒に勝手に書かせて、ダメ出しでは、
教師が優位になって、悪い所は生徒のせいになってしまう。
そうじゃなく、主題の発見のところで、
内容は誘導せずして、
いかに生徒自身の本当に書きたい主題の発見を
教師がサポートできるか。
生徒の思い込み・恐怖を取り、
「考える」機会を提供できるか。
そこが基礎教育における教師の役目と私は思っている。
「まず育てる → しあげに試す → 評価」
この順番だと、
生徒は、自分の能力やセンス=実力だけでなく、
学習や訓練の積み重ね・量=努力の評価とも感じる。
たとえ評価が悪くても、生徒は、
ちゃんと話を聞いてなかった、訓練をサボった、
など努力不足の面も思いあたるから、
自分自身を否定されたようにはならない。
だから、泣かない。
教師も、自分の指導法が有効でなかったか、
訓練の量が足りなかったか、と責任が見えるから、
「どうしてできないの」とはならない。
つまり、教師と生徒が対等に立てる。
私が16年勤めた教育系の企業には、
「模試」と「通信教育」2つの柱、つまり、
「試す」と「育てる」があり、どちらもとても大事だ。
「模試=試す」ほうは、
生徒がそれまでに身に着けてきたチカラが、
正確に測れるように、皆同じでなく差がつくように、
全国でどの位置にいるのか判定できるように、
それで進路の参考になるように、
たいへん緻密にできている。
一方、「通信教育=育てる」ほうは、
問題一つ出すにも、赤入れ一つにしても、
判定でなく、育てることを目的に設計されている。
教育は、試してばかり、育ててばかり、ではだめ、
育ててるつもりで実は試してる、という混線もだめ、
「試す」と「育てる」を賢く使い分ける必要がある。
なんでできないの、と責めるまえに問うてみよう。
「自分は、育てたか?」
育ててないとすれば、どこで、どうやって育てるのか?
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