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質問:
論理的な言葉について、どう考えていますか。 |
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論理的な文章というのは、
言葉のいちばんまずしい使い方だと思います。
論理的な文章は、
たしかにその現場にいない人にも
伝えることのできるものです。
だからたとえば人の話を聞いて
「この人はすごい」と思った内容を伝える時も、
知らず知らずのうちに
論理的なものになってしまいがちですよね。 |
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ほんとうは単にその人のことを好きだったから
説得されているだけなのに、
現場ではないところでしゃべる時には、
まるで自分が論理的に
説得されたかのように説明する……
言葉って、そういうふうに
使いがちだし使われがちなんです。 |
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つまり
「現場でやりとりされている言葉」と
「現場を離れて人に伝えるための事後報告の言葉」
というのは、まるで意味がちがうわけです。
小説というのは現場の言葉ですが、
人におもしろかったと伝える言葉や
書評の言葉というのは
すべて事後報告の言葉になってしまうわけですね。 |
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そこで「事後報告の論理的な言葉」で
小説が流通しがちだけど、
その言葉では伝わらないおもしろさを
わかる人がひとりでも増えたら、
小説はきっともっとおもしろく読めると思います。 |
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ワイドショーや新聞や雑誌の中の言葉は
論理性が乏しくて情緒的ではあるものの、
それでもまだまだじゅうぶんに
「論理的な使用法」
(「整合性にこだわる使用法」
「つじつまのあった使用法」)
をされている点も、
気をつけた方がいいとは思うんですけど。 |
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小説や芸術をちゃんと考えると、
それぞれ大なり小なり
行き詰まっていることに気づくわけですが
「ただ何していいかわからないという
ぼんやりした行き詰まり方」というよりは、
やらなければいけない方向だけは
見えているように思うんです。 |
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それが、小説の場合には
「論理性を超えた現場の言葉」という、
いちばん広がりのある言葉の使用法を
拡大する方向だといいますか。
現場の言葉の使用法を拡大することが
小説の使命だとしたら、
やらなければいけないことは
まだまだたくさんあるんですよね。 |
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月曜日に続きます。 |
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