怪・その29
「ある小さな集落」
もう10年前の4月のことです。
仕事を始めたばかりの要領の悪い私は、
残業続き。
その日も深夜をまわっての帰宅でした。
帰りの車に乗り込んで、
ふと冷蔵庫が空っぽだったのを思い出し
車で片道15kmほどのところにあるコンビニに
向かうことにしました。
真っ暗な山道を走ると8kmほどのところに
Aという小さな集落があります。
過疎が進んで民家も減り、
小さな個人商店が1件あるだけの
小さな集落です。
午前2時を過ぎていましたので、
当然商店はシャッターを下ろし、
街灯と自動販売機の明かりだけ。
当然、人の気配はなく
「寂しいねぇ、田舎は〜」なんて一人ごちて
先を急ぎました。
と、集落の最後の民家の前を
通り過ぎようとしたとき、
前方に自転車が走っているのが見えました。
午前2時に? 年寄りしかいない田舎の集落で?
一瞬疑問に思いましたが、
酔っ払いだろうと考え慎重に追い越そうと
速度を落としました。
ゆっくり右に寄せながら
その自転車を追い越すとき
見てしまったのです。
自転車を運転するその人を。
いえ、正確には、
胸から上がすっぱりと何にもない
この世のものじゃない人を。
自転車のハンドルを握る手はありました。
でも手首から上がありません。
自転車を漕いでいるサンダル履きの足と
少し太めのズボン、ベルト、
そこまでは見えました。
が、その上本来胴体がある部分は
真っ暗な空間があるだけでした。
「うあああああ!!!!!」
悲鳴を上げてアクセルを全開にし、
猛スピードでコンビニまで行きました。
買い物を済ませると気分も落ち着いて
「まぁ疲れてたからね」と
すべて目の錯覚に違いない、
そう自分に言い聞かせました。
その後何度か同じ場所を走ったのですが、
特に変わった事もなく、
私の中であの日のことは
少しずつ色あせていったのです。
それから4か月。夏真っ盛りで、
テレビで怖い話の特集が組まれる頃。
仕事の関係で50代の男性Bさんにお会いした際、
ちょうどラジオから怪談が。
そこでBさんが
「そういえば、Aって“出る”よな‥‥」と。
Bさんは、以前、深夜車を走らせていたとき
Aを通りかかりました。
そして、目の前に1台の自転車。
彼は急いでいて気づくのが遅れ、軽く接触。
自転車は道路脇の畑に落ちてしまったのです。
青くなったBさんは、
車を停め自転車に駆け寄りました。
自転車は道路と畑の間の草むらに
倒れていましたが、人がいません。
飛ばされたんだと思い、
「大丈夫ですか!!」と怒鳴りながら
周囲を探しますが誰もいません。
すぐ横に街灯があるので、暗くはないですから、
見逃すはずもありません。
「おかしい・・・」。
そこでBさんは気づきました。
さっき見た倒れた自転車がどこにもないことに。
翌朝、まだ気になっていたBさんは
Aの知り合いに電話をし、事故や行方不明が
いないかの確認をしたそうですが、
何もないとの返事だったそうです。
その夏は、なぜかBさん以外にも数名の方から、
Aでの不思議な体験を告白されました。
ある方は、外れのバス待合所に
深夜たたずむ顔のない男性の話を。
またある方は、なぜかAを通ると
身体がだるくなる話を。
耳元でささやかれた方、足を掴まれた方。
とりたてて何もない小さな集落ですから、
ふだんめったに話に上がることもないAの名を
その夏はやたらと耳にしたのが印象的でした。
(灰音)
2007-09-02-SUN