#2 須賀川市

須賀川市は、「すかがわし」と読む。
福島県を分割する三つのエリアでいうと、
中通りのほぼ中央、郡山市の南にある。

ちなみに、福島の三つのエリアというのは、
浜通り、中通り、会津で、
地図で表すとこんな感じになっている。

三つのエリアの地図

須賀川市は、人口約7万9千人。
古くは奥州街道の宿場町として栄え、
松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で
この町に8日間滞在したそうだ。

福島県唯一の空港である福島空港があるが、
東北新幹線の停車駅がないということもあって、
これまでぼくはこの町を訪れたことがなかった。
しかし、「須賀川」という地名には、
あらかじめ勝手な親しみがあった。

2011年の夏、福島県の高校野球を取材したとき、
大会を制した聖光学院と決勝戦を戦ったのが、
須賀川高校だった。
胸に「S」の文字が入る
シンプルでかっこいいグレーのユニフォームを
ぼくははっきりと憶えていた。

須賀川をはじめて訪れたとき、
町を見渡しながら、
そうか、あの子たちはここから来たのか、と思った。

あの、2011年の「特別な夏」に
福島の高校野球を追いかけたことが
ぼくと福島のはじめての接点だったから、
おかしなことに、ぼくにとっては、
福島の高校のひとつひとつの名前が、
地理的な「めもり」のように機能している。

そうか、あの夏、
準決勝で小高工業高校を9回表に逆転し、
雨の決勝戦で聖光学院に敗れた須賀川高校は、
ここで練習し、ここで汗を流し、
ここからバスに乗って球場へ来ていたのか。

メールで紹介された岩瀬病院へ行く前に、
ぼくは須賀川市の市役所を訪れた。
はじめて訪れるこの町の、
基本的なことを知りたかったからだ。

前回の原稿でぼくは、
物事は両端にスポットが当たりやすいと書いた。
とりわけ、震災後の福島については、
極端なところばかりがフォーカスされる。
それはもう、よくもわるくも。

ニュースでよく目にする福島の地名といえば、
やはり福島第一原発に近い町の名前だ。
除染や仮設住宅の問題などが報じられるときには
浜通りのいくつかの地域の名前も登場する。

須賀川市の名前を聞くことは、あまりない。
もちろん、ある意味では、
ニュースに名前が出ないほうがいいに決まっている。
ただ、須賀川市が東日本大震災で
なにもなかったはずがない。
いただいたメールに書かれていたように、
この場所でも、痛々しい場面があり、
救助や復興に向けての懸命な活動があったはずなのだ。

正直にいえば、
ぼくは2014年6月に須賀川市を訪れたとき、
この町があの震災の日に
どれほど揺れてどれほど壊れたのかということを
まったく想像できていなかった。

須賀川市役所の市庁舎は、仮設だった。
あ、まだプレハブなんだ、と軽い違和感を覚えた。
というのも、駅から市役所への道すがら、
眺める街並みは震災の影響を
感じさせないほど整っていたからだ。
震災から3年半が経ち、
少なくとも、外見上、須賀川の町は
元の姿を取り戻しているように思えた。
しかし、須賀川市の市役所はまだプレハブだった。

須賀川市役所の企画財政部に務める、
秡川千寿さんと鈴木康夫さんにお話をうかがった。

秡川

「3月11日、東日本大震災が発生し、
 当市は、内陸部では最大となる
 震度6強の被害に見舞われました。」

震度6強‥‥という数字にぼくは驚き、
ついその数字を口に出して確認してしまった。
「なかなか報道などでは扱われませんでしたが」
と秡川さんたちは苦笑した。

秡川

「かなり大きな揺れで、
 当市では、市庁舎が倒壊いたしました。
 市内では約1万5000世帯の住宅が
 全壊、半壊、一部損壊といった被害を受けました。
 残念ながら、亡くなれた方が10名。
 それから、いまも行方不明の方が、1名。」

10名の尊い命が失われているけれども、
建物の損壊の割には、
亡くなられた方の数は海岸の地域よりもずっと少ない。

そう、やはり、「津波」なのだ。
「津波さえなければ‥‥」という無念のことばを
過去の取材中、いろんな人から何度も聞いた。

しかし、内陸部で行方不明というのは
どういう原因によるものだろう。
川だろうか。あるいは、土砂崩れ‥‥。

秡川

「藤沼湖という湖が決壊しまして、
 大規模な水害が発生しました。
 『局所的な津波』という表現をされた方も
 いらっしゃいました。
 亡くなられた方のうちの何人かも、
 この水害によって命を落とされました。
 行方不明の方は‥‥幼い子どもさんですね。」

どうしても、小さな子どもの命についての話は、
覚悟していても、こころが揺れてしまう。

鈴木さんが当時の須賀川市の写真を見せてくださる。
すさまじい被害だ。
とりわけ、縦に押しつぶされている建物が目立つ。
1階部分が崩落してなくなっていて、
2階の床がそのまま接地している、
という建物がいくつもある。

秡川

「震度6強の揺れを受けて、
 これだけの被害に遭いながらも、
 人的な被害というのは、
 少なかったのだろうとは思います。
 おそらく、発生の時間帯が
 午後2時46分だったというのが影響しているのかなと。
 これが、夜中ですとか、明け方だったりすると‥‥。」

寝ているうちに、
倒壊した家屋の下敷きになったりして‥‥。

秡川

「はい。阪神淡路大震災のときは、
 そういった被害が多かったそうです。」

市役所自体も、
相当な被害に遭われたんですよね。

鈴木

「ええ、広い範囲で壁が落ちました。
 柱が曲がったりもしましたが、
 しかし、人に関しては、幸い、市役所で
 亡くなった方はいませんでした。」

あの、これは、須賀川市に限らないことですが、
東日本大震災では、役所や病院にお勤めの方は、
ほんとうにたいへんだったのではないかと思います。
その、おそらく、ご自分も被災者でありながら、
職業上、被災者の方への対応を第一にしなくてはならない。
ときには、怒られたりすることもある。
その、こうして月日が経ってさえ、
自分たちでそう言うことはできないとは思いますが、
ご家族もいらっしゃるでしょうし、
たいへんだったのでは?

秡川

「周囲の職員たちの話を総合すると、
 家族がいる多くの職員は、基本的に、
 『もう家族に任せた』という感じだったかと思います。
 自宅が倒壊してしまった職員も何人かいたのですが、
 市役所での対応を優先し、
 何日も泊まっていたそうです。
 揺れた当初は、私も3日間泊まってました。」

そうですか。
そのときに、ご家族は?

秡川

「幸い、メールが通じたんですね。
 それで無事だけは確認できましたから、
 で、そこは、任せたから、ということで。」

はーー。
しかし、なんでしょう、先ほども言いましたが、
そういったがんばりというのは、
どうしても、話題になりにくいというか、
話題にのぼったからどうこういうことではないのですが、
やはり、現場の消耗、疲弊というのは、
そうとうなものがあったのではないかと。
そしてそれを「たいへんだ」とか「疲れた」とか
ふつうに感じていることを口に出せないことが
また別の負担なのではないかな、と思って。

秡川

「‥‥どうなんでしょう。
 それは、個々人の受け止め方で、
 千差万別あるんだと思いますので、
 一概には申せませんけれども。」

秡川さん個人としては、どうですか?

秡川

「‥‥‥‥。」

しばらく待ったけれど、
秡川さんからのことばはなかった。
言うべきことばがないでしょうけれど、
ということをこちらが承知のうえで
あえて、という意味を強めて質問したところで、
やはり、言うべきことばは、見つからない。
それは、どうしようもなく、そうなのだと思う。

結果的に意地悪な質問になってしまって、
秡川さんは、困ったような表情を浮かべるばかりだった。

ぼくは、ほぼ日に届いた、
須賀川市の病院で働く
臨床心理士の方からのメールにあった、
あのことばを思い出した。

「福島の人たちは、我慢ができすぎます。」

そして、そのフレーズをお二人に告げた。
こんなふうに表現している方がいるんですよと。

「福島の人たちは、我慢ができすぎます。」

すると、このことばをゆっくり噛みしめて、
少し微笑んで、秡川さんは、口を開いた。

秡川

「我慢‥‥というよりも、どちらかというと、
 『なんとかしなきゃ』
 という思いが強いのかもしれません。
 その‥‥こうなってしまったのは事実ですので、
 そこから、じゃあどうする、
 っていうところなんですね。
 たぶん、思い迷ってる
 暇(いとま)はないと言うんでしょうか。
 そんなことが、あるのかもしれません、
 『福島の人たちは、我慢ができすぎます。』
 という言葉の背景には。」

鈴木さんはどうですか。
「福島の人たちは、我慢ができすぎます。」
ということばについて、どう思いますか?

鈴木

「はい、それは、感じます。」

まわりの人たちを見ていて、
「我慢しているな」と思われるわけですか。

鈴木

「そうですね‥‥。」

短いの肯定のあと、ことばは続かなかった。
いま、考えると、とても当たり前のことで、
我慢ができる人は、
自分が我慢していることについて、
なにか言ったりしない。
だからこそ、我慢ができる人なのだ。

だいたいぼくは、
「そうです、我慢しています」などと
言ってほしくて取材しているわけではない。

なら、どういうつもりでここにいるのだろう。

福島を取材していると、
あいかわらず、こんなふうに、
簡単に答えの出ないことと、
唐突に向き合うことになる。

どういうつもりで自分はここにいるのだろう?

あえていえば。
ぼくは、「福島の人は、我慢ができすぎる」と
思っている人が(ぼくを含めて)いるということを、
福島でがんばっている人たちに、
伝えたいのかもしれない。

要するにそれは、構造としてエールなのだろう。

いま、取材をまとめながら、
ようやくことばにできるけれど、
ようするにぼくは福島でがんばっている人たちに
エールのようなものを送りたくて、
すこしでも励ますことができればと思って、
「がんばってください」というようなことを伝えたくて、
福島を取材しているのだろう。

ぼくは、話題を変えて、
仮設の市庁舎について、質問する。

しっかりとつくられてはいるけれども、
須賀川市の市役所はプレハブで、
ぼくが取材させていただいている場所も、
会議室などではなく、職員のみなさんが
お仕事をされている広いスペースの一角である。

新しい市庁舎はいつごろできるのですか?

秡川

「市庁舎につきましては、
 平成28年3月の完成を目標にして、
 いろいろと手続きを進めているところです。」

ああ、そうですか。まだ、先ですね。

鈴木

「2年弱、というところですね。」

震災があった2011年からだと、丸5年。
それは、なんというか、遅いような気がしますが‥‥。

秡川

「まぁ、やはり、先に、
 市民のみなさんの生活を再建していただく、
 というところが最優先ですから‥‥。」

鈴木

「先に、庁舎ができてしまったんでは‥‥
 まぁ、やはり‥‥。」

ああ、やはりそうなのか、とぼくは思う。
つまり、市役所の人たちは、
自分たちのことを後回しにしているのだろう。
しかし、それを確認されても困るだけだろうから、
それ以上、ぼくは口にしない。

須賀川だけでなく、福島の別の場所でも、
いや、東北のさまざまな場所において、
ぼくは、自分のことを、自分たちのことを
さまざまな規模で「後回しに」
している人たちを目にしてきた。
それは、「我慢」というよりは、
さきほどの秡川さんのことばを借りるなら、
そうしたいという「意思」なのだろう。

震災後の復興にまつわる資料や、
須賀川の観光ガイドなどをいただいて、
ぼくは荷物をまとめた。
最後に写真を撮らせていただいたのだけれど、
予想通り、ちょっと苦労した。
秡川さんも、鈴木さんも、そして撮影するぼくも、
かしこまっての撮影は、やっぱり苦手だから。

ええと、困るでしょうけど、
ふつうにしててくださいね。

秡川

「困りますね(笑)」

鈴木

「ふつうに(笑)」

そして、秡川さんがぽつりとこうおっしゃった。

秡川

「笑顔で、っていうわけにもいかないですし‥‥」

いえいえ笑顔で、とは、ぼくには言えなかった。
まさに、そういう苦労を、秡川さんたちは、
いまもまだ抱えているのだろうと思ったから。

でも、ほんとうは、
自然に笑顔にしてていいんだ。
無理して笑顔になる必要もないけれど、
自然に笑顔になるときは、
自然に笑顔にしていていいんだと思う。

(つづきます)

2015-03-12-THU