#04 ふたりの看護師さん

福島県須賀川市にある公立岩瀬病院は、
2011年3月11日、
東日本大震災に襲われた直後、
崩れつつある旧病棟から
完成したばかりの新病棟へ、
職員総出で引っ越しをはじめる。

そして、物資と情報の途絶えた街で
復興の拠点として機能し、
現在にいたるまで
三浦院長の指示のもと、
ひとりひとりがひたむきな実務を重ねている。

三浦院長の話をうかがう前に、
病院で働くふたりの看護師の方を
紹介していただいた。

佐藤友美さんと八代あかねさん。
ともにナースとして外科病棟に勤めている。

2011年3月11日、
須賀川市が震度6強の揺れに襲われたとき、
佐藤さんは妊娠7ヵ月、
八代さんは妊娠5ヵ月だった。

佐藤さん(左)は当時ナースとして6年目。八代さんは4年目。

佐藤

「地震が起きたとき、私は休みだったので、
 アパートでふつうに過ごしていました。」

八代

「私は夜勤明けで、自宅に帰ってました。
 夜勤明けだから寝てたと思うんですけど、
 たぶん、揺れとともに起きたのかな。」

佐藤

「私は、揺れがおさまったあと、
 一回外に出て、どうしようと思ったけど、
 あ、病院に行かなくちゃと思って、
 すぐ病院に来ちゃったんです。」

八代

「私はしばらく外に出て、
 親と連絡がとれたので実家に行きました。
 で、夜になって、やっぱり私も
 病院が心配になってきてしまって、
 夜の9時ごろかな?
 とりあえず、病院に来ました。」


震度6強の揺れが街を襲い、
建物は崩れ、道路は陥没しているという状況で、
佐藤さんも、八代さんも、病院にやって来ている。
おそらく、余震も続き、
周囲はほぼ闇だっただろう。
そんななかで、ふたりはそれぞれの判断で
職場である公立岩瀬病院へ向かった。

それは、職務を果たすというか、
責任感からなんですか? 
と、おふたりに訊いてみる。

「なんでしょうね‥‥」と佐藤さんは言う。
そしてしばらく考え、
「行かなくちゃ、って思ったんです」と答える。

八代さんも「うん」と同意する。


佐藤

「やっぱり、患者さんが気になりました。
 引っ越しの前だったし、
 古い病棟で大丈夫かな、
 行ったほうがいいかなと。」

八代

「私も、患者さんはどうしてるだろう、
 っていう思いがどんどん大きくなってきて。
 翌日が引っ越しの予定だったから
 どうなるのかな、というか、
 予定外でいろいろ困っているだろうから、
 なにかしら手伝えることがあるかなと思って。
 実際は、着いたらもう、
 引っ越しは終わってたんですけど。」


先に書いたように、
そのとき、ふたりは妊娠中だった。
それは、自分の行動にどう影響したのだろう。
もちろん、お腹の中の命のことを、
考えなかったはずがない。
それでも、ふたりは、行動した。

あえて、正面から訊いてみる。
お腹の中の赤ちゃんのことは、
気にならなかったですか?


佐藤

「たぶん、赤ちゃんが生まれてたら、
 行けなかったと思います。
 でも、なんていうか、まだお腹にいたから、
 落ち着いて行動ができた。
 といっても、すごく冷静だったわけじゃなく、
 『落ち着いて、落ち着いて』って
 自分に言い聞かせながら
 行動できたという感じです。
 病院に着いたら、ちょっとホッとして
 泣いちゃったりしたんですけど。」

八代

「私はまだ妊娠5ヵ月だったので、
 胎動もまだ感じてなかったし、
 そういう意味では、
 それほど気になりませんでした。
 うちは主人もあのとき仕事で
 持ち場を離れられなかったので
 ひとりでいるよりは
 病院にいたほうが安心、ということもあって。」

佐藤

「病院に着いたら、みんなから、
 『妊婦なのに、なんで来たの?』
 って心配されました。
 でも、小さいお子さんがいる人のほうが
 私よりずっとたいへんだったと思います。」

八代

「うん。」

佐藤

「ある先輩は、まだ小さいお子さんがいて、
 それでもあの夜、ずっと働いていたんです。
 で、引っ越しの作業をして、患者さんの
 バイタル(血圧、脈拍、呼吸、体温)測って、
 ようやくちょっと落ち着いたというときに、
 その先輩が隠れて泣いてたんです。
 だから、なんていうか、
 私はまだお腹の中にいるから
 どうにか自分で守れるけど、
 離れて過ごすのは、心配だよなあ、
 そんな状態でも働いてて、すごいなあと思いました。
 先輩だけじゃなく、みんなすごいなあ、って。」


仕事をまっとうしようという自分と 
家族を含めた、プライベートな自分。
そのふたつが、
あの日、揺れを感じた多くの人の中で
ぐしゃぐしゃに入り交じったのだと思う。

看護師という、責任の重い職務を抱えたおふたりは、
そのふたつをどのようにとらえていたのだろう。


八代

「なにか、はっきりスイッチがあって
 モードを切り替えているという感じではないんですけど、
 やっぱり、仕事となったら、仕事をする自分がいて、
 家に帰れば、まぁ、母親だったり妻である自分がいて、
 どこで切り替わるのか、場所で切り替わるのか‥‥。
 ああいう災害があったときには、
 どっちもの考えが混ざってくるので、
 うまく言えないんですけど。」

佐藤

「家族からは、
 『この状況で、妊婦なのに仕事に行くの?』
 っていうことも言われたんですけど、
 でも、私は、なんだろう、
 この仕事をやってる責任みたいなものが、
 自然に芽生えてきてたから‥‥。
 そのあと、原発の事故が起こったときも、
 ほかの人たちからは
 『逃げないの?』みたいなことを
 やっぱり言われたんですけど。」

八代

「うん、うん。」

佐藤

「もちろん、そういう選択肢もあったんですけど‥‥。
 一方で、自分がその仕事を抜けてしまうというのは、
 考えられなかったんですよね。
 この場で、ここで、働きつづけるのは、
 もう当たり前というか、なんだろう‥‥。
 仕事から離れるというのは、
 考えになかったんですよね。」


おふたりがその場を離れず働き続けたことを、
誰しもが絶賛する美談として放り出すような
無神経なことはしたくない。

震災の直後、糸井重里は、
「真剣に考えてくだした判断は、すべて正しい」と言った。
「だから、自分を小さなリーダーとして判断しよう」とも。
その基本的な姿勢は、
当時、ぼくや、職場の仲間たちを
ずいぶんラクにしてくれたし、
おかげで、自信をもって「これが正しい」と言えなくても
なにかしら自分なりの判断をくだすことができた。

だから、震災の起こった日の夜に
病院に行って職務をまっとうするという判断を、
絶対的な正解としてここで押しつけたりはしない。
いろんな場所に、いろんな判断があっていいと思う。

このコンテンツでは、大きくいえば、
福島県須賀川市にある公立岩瀬病院での判断を
そのままお伝えしている、というだけのことだ。

それをどう受け止めてもいいと思う。
ぼく個人は、そこでくだされた
ひとつひとつの判断を、
こころからすごいことだなぁと思っている。

おふたりの話をうかがっていると、
「ふつうに」「当たり前に」ということばが
何度も出てくることに気づく。
「震度6強」という、
明らかに、ふつうでも当たり前でもなかった状況で、
職場に戻った人たちの「仕事ぶり」そのものは、
「ふつうだった」と、
ふたりの看護師は振り返る。


佐藤

「勤務自体は、ふつうにやってましたね、みんな。
 震災のあった日の夜中に、
 夜勤だから出てくる人たちもふつうにいましたし。」


それはつまり、その日、3月11日が、
「自分の夜勤の当番の日だから」ということで?


佐藤

「はい。もちろん、状況的には
 ぜんぜん落ち着いてないんだけど、
 夜は夜で、ちゃんと働く。
 勤務の日だから、みたいな感じで出て来て、
 ふだんどおりふつうに勤務し、
 朝帰って行った、という感じです。」


それは、「覚悟を決めて働く」みたいな感じではなくて?


佐藤

「覚悟というよりは、自分の責任というか、
 いつもどおりの責任感があったんだと思います。
 家族のことも気になるけど、
 『じゃあ、ここの患者さんたち、誰が看るの?』
 っていったら、看るのは、もう私たちだから。」


──なるほど。


佐藤

「だから、なんかふつうに、当たり前に来てました。
 混乱があったのも最初だけで、
 なんか、人ってすごいなと思うくらい、
 みんな迅速に散らばって、バイタル測って、
 問題ないねっていう感じでやり取りして。」

八代

「貯水タンクの水をつかってたので
 節約はしなくちゃいけなかったんですけど、
 電気も来てたし、患者さんに
 少ないながらも食事は出せていたので、
 ものすごく不便だったという記憶はないんですよ。」

佐藤

「とくに外科病棟は物資があったほうだったので。
 私の家は電気もガスも水道もダメだったんですけど、
 ライフラインが止まってない地域の人が、
 おにぎりをたくさんつくって、
 ドーンと持ってきてくれたり。」

「いま振り返ってみれば‥‥」という
前提つきのことなのだろうけれど、
あれほどの混乱と苦難を、
おふたりは極めて前向きに
乗り切ってこられたように感じた。

それはもちろん、
おふたりの資質によるところが大きいとは思うが、
なんというか、
この公立岩瀬病院ならではの、
三浦院長が言うところの
「ものすごい一体感」のようなものが
ひとりひとりの職員を
後押ししたのではないかという気がした。


佐藤

「ああ、そうかもしれないです。
 震災の日も、集まれっていう指示は
 まったく出てなかったのに、
 若いスタッフもバーっと集まったし、
 上の方たちもみんな来てたし。
 だから、いちばんたいへんだった
 震災直後の何日かも、
 予定以上の人数で勤務してた感じで、
 みんな、当たり前のように
 『なんかやることないですか』
 みたいな感じで集まってた。
 ああいう大きな震災があったからというよりも、
 たぶん、ふだんから、
 いい関係が築かれてたんだろうなと思います。」 

八代

「いつも、やるべきことをちゃんとやる、
 という先輩が多くて、
 自分も新人のときからそれを見ているので、
 それが当たり前というか、
 非常時であれ、なんであれ、
 やるときはしっかりやる、
 というのが身に染みついているというか。
 尊敬できる人が多いので、
 そのなかで働けているのは
 すごくいいことだなあと思うし、
 私はほかの病院で働いたことがないので
 比較することはできないんですけど、
 ここはすごく働きやすいというか、
 ほんとに恵まれているなぁと思いますね。」

ぼくも、ほかの病院を取材したわけではないけれど、
この、公立岩瀬病院は、
よい病院なのだろうなぁ、と思う。

だからこそ、震災を乗り越えられたのか、
あるいは、震災を乗り越えることで
ますます互いの関係が深まって
よい病院になっていったのか。

あらためて、いま振り返ってみて、どうですか?
最後にそんなふうに訊いたところ、
意外なことを知ることになった。


佐藤

「あれから4年になりますけど‥‥
 なんか、あっという間に過ぎちゃった感じがします。
 そのときに生まれた子どもも3歳だし、
 いま、2人目も生まれて、
 その子も、もう1歳になるし。ね?」

八代

「うん(笑)」


‥‥え? 佐藤さんも、八代さんも、2人目が?


佐藤

「そうなんです。」

八代

「生まれた時期も同じなんですよ。
 また2ヵ月違いとかで。」

佐藤

「だから、上の子も下の子も、同級生(笑)。」

八代

「はじめての妊娠、出産と、
 私、先輩の後を追ってるんです。
 2ヵ月後にこうなるんだな、って(笑)。
 だから、すごく頼りになったというか、
 お腹がどのくらい大きくなるかとか、
 どう動くといいとか、
 すぐ身近にお手本がいたので、助かりました。」


震災後、無事にお子さんを出産しただけでなく、
2人目のお子さんも!
へぇぇぇ、と驚きながら、妙にうれしい気持ちになる。


佐藤

「だから、震災からのことを振り返ると、
 あっという間、っていう感じなんです。
 そのあいだに、1人目が生まれ、
 2人目も生まれて、
 もう、それですごくしあわせだから。
 なんか、福島のことについて
 まだ騒がれたりもするけれども、
 自分たちはもう、
 ここで生きていくって決めて進んでいるから、
 いまは昔ほど心配もしていないし。」

八代

「うん。」

佐藤

「ほんとに前に前に生きるしかないから。
 だから、これから、なにかあったとしても、
 そのときには、家族で協力して
 進んで行くしかない、って思っているので。
 うーん、だから、
 いまは、ぜんぜん、ふつう。」


──ふつう。


佐藤

「はい。ふつうに、たのしく、
 しあわせに暮らしていると思っています。」


ふつうに、たのしく、しあわせに暮らしている。
おとぎ話の終わりにだって
なかなか登場しないようなフレーズを聞いて、
なんだか、こっちまで、しあわせな気持ちになった。

(つづきます)

2015-03-17-TUE