福島県須賀川市公立岩瀬病院の
三浦純一院長にお話をうかがったとき、
院長が宝物のように大事にしている
ふたつのものを紹介してくださった。
ひとつは、ノートに書かれた、理念である。
三浦院長は、阪神淡路大震災における
医療について学んでいたとき、
「ことば」や「理念」が、
組織や人を動かすうえで
とても重要な役割を担っていることを知ったという。
それから、三浦院長は自分の「理念」と向き合い、
きちんとことばで表せるようにしようとした。
ついにできあがったのは
2007年6月17日のことで、
なぜ日付まで正確にわかるかというと、
自分の「理念」がことばとして整ったとき
三浦院長はそれを日付とともにノートの冒頭に記し、
そのノートをいつでも読み返せる場所に
つねに置いているからである。
取材の現場で三浦院長が
開いて見せてくれたノートの冒頭には、
つぎのようなことばが書きつけてあった。
「このまちは無駄には人を死なせない。」
このまち、というのは、須賀川市のことである。
三浦院長のもうひとつの宝物は、
甲状腺の検査機、
正確にいうと、甲状腺の検査機と、
それを包むジュラルミン製のケースである。
超音波で甲状腺の状態を測る検査機は、
三浦院長が起ち上げた
緊急救命のNPOが購入したものだが、
管理は三浦院長に任されている。
福島第一原子力発電所の事故の後、
三浦院長は甲状腺異常を心配する須賀川市の住民、
とくに、子どもの甲状腺について
不安を感じているお母さんたちと検査を通じて交流し、
つながりを深めてきた。
つまり、甲状腺の検査機は
三浦院長にとって医療の道具であるだけでなく、
自分と須賀川市民をつなぐ大切な
コミュニケーションツールなのである。
(早野龍五さんの活動におけるBabyscanと似ている。)
そして、ある意味で検査機以上に
三浦院長が愛着を感じているのが
検査の機器一切が収められているケースである。
ジュラルミン製のケースは、
院長が機材をどこにでも持ち運べるように、
取っ手のついた大ぶりの
アタッシェケースのような形状になっている。
ケースを開くと、機材とケースのあいだに
緩衝材ががっちりと組み込まれている。
そのパーツは、ひとつひとつ、
手作業でつくられたものだ。
須賀川市の有志の方が、
三浦院長の活動を支援するために
つくってくれたものなのだという。
おかげで、三浦院長は、
好きなときに好きな場所へ検査機を持ち運び、
大勢の人の甲状腺を検査することができた。
「これを持って活動していると、
みんなに支えられてるなと思うんです。」
三浦院長のお話をうかがっていると、
しばしば「このまち」という表現が登場する。
そういえば、市役所で話を聞いたときも、
ふたりの看護師さんにインタビューしたときも、
「このまち」の連帯感、一体感を
ことばの端々に感じ取ることができた。
「もともと、須賀川という土地は、
『自治の精神』が強いというか、
自治といっても行政的な自治じゃなく、
まさに『自分たちでなんとかしよう』という
意識があるところだと思うんです。」
須賀川の「まち」としてのまとまりについて訊くと、
三浦院長はそんなふうに説明してくださった。
「もともと須賀川は宿場町です。
町人や商人の方たちが、
自分たちの財産をかけて
発展させてきたという歴史があると思うんです。
松尾芭蕉が1週間滞在したという記録がありますが、
『奥の細道』が発表される前のことですから、
芭蕉を有名人としてもてなした
ということじゃないと思うんです。
純粋に、旅の人として、須賀川の商人たちが
おもてなししたんでしょうね。」
その市民性は、ある意味、
公立岩瀬病院の創立にも関係しているという。
「公立岩瀬病院は明治5年に創立されたんですけど、
そのとき、ある商人の方が、
西洋医学の病院をつくろうとしている先生に
自分の軒先を貸して、
『じゃあここで病院やりなよ』って
言ったことがはじまりなんです。
商人の力があったからそう言えたんでしょうね。
そういったDNAみたいなものが、
須賀川の人には受け継がれていると思います。
おもしろいことに、その力は、
政治や行政といった分野には注がれないんです。
だから、須賀川からは、
大臣とか、国会議員とか、あまり出ていない。
政治には首を突っ込まないというか、
政治とは少し距離を置いた
商人が主体となった自治のまち。
そこが、いいんじゃないかな。」
ちなみに三浦院長は須賀川市の生まれではなく、
医者として、このまちに赴任してきた人である。
震災後、三浦院長が公立岩瀬病院を拠点にして
行ってきた多くの活動は、
須賀川市の『自分たちでなんとかする』という
自治の精神に満ちたものである。
推測だけれども、たぶん、
須賀川市だけではなく、東北の多くの地で、
『自分たちでなんとかする』という精神に
のっとった活動が行われたのではないだろうか。
三浦院長に当時を振り返ってもらうと、
このまちの自治の精神は、
震災後、すぐに発揮されていたことがわかった。
「震災の直後、情報を集めていくと、
とにかく、国や東電は
現状把握できてないのがわかりました。
あの混乱のなかですから
しかたのない面もあると思います。
しかし、私たち外科医の日常からすると、
話にならないくらい現状が把握できていない。
だからもう、そこは自分のなかで切り離して、
自分たちでなんとかしようと考えました。」
三浦院長は国や東電に正当な対応を求めるのではなく、
ある意味であっさりと、それらに見切りをつけて、
病院長としての活動にフォーカスしていく。
現状把握ができていない不手際に
怒りを感じることはなかったですか、と訊いてみる。
「怒る人もいるかもしれないですね。
でも、あのとき、怒ったところで意味がない。
いま、みんなが困ってるんです。
大事なのは、それに対してどうするんだ、
っていうことですよね。
みんなが何を困ってるの?
どうしてほしいの? ということをすくい取って、
自分たちで対応していくほうが優先です。
国や東電からの情報は、ウォッチだけしておく。」
しかし、自分たちの目に見える範囲のことはわかっても、
福島第一原子力発電所のこともあったし、
いま目の前のあることに集中しつつも、
規模の大きな不安は抱えていたのではないだろうか。
「もちろん、最悪の事態は想定していました。
具体的には、ここを離れて
全員が避難しなければならないこと。
ここは、原発から60キロ離れてるんです。
‥‥あ、60キロって言うと、
うちの真面目なレントゲン技師に怒られるので
正確にいうと、59キロ離れてるんです。
その範囲まで住民が避難しなければならないとなったら、
これはもう、うちの病院がどうこういう問題ではなく、
おそらく、『100万人規模の移動』になる。
そうなったときにどうするか、というのは、
結論が出ないまでもきちんと話し合ってました。
たとえば、どういう順番で移動させるか。
移動させること自体が危険な患者さんもいます。
でも、決めなきゃいけませんから、
こういう順番だろうってぼくが話すと、
みんな、シーンとなっていくんですよね。
まず、子どもを移動させよう、と。
これは誰も異論がない。
つぎに、重症の患者さんと、歩ける人と、
どっちを先にするべきだろうか。
ぼくが、助かる可能性が高いほうだから、
歩ける人が先なんじゃないか、って言うと、
みんな、黙っちゃうんですよね。」
けっきょく、そういう事態にはならなかったので、
重い決断はくださずにすんだ。
三浦院長が当事者として下す決断は、
ふつうの人にとっては、とても重い。
なにしろ、その組織に属している職員だけでなく、
病院に身を寄せている多くの患者さんの命も、
左右してしまうのだから。
机上の空論ではないからこそ、
黙ってしまう人が多くなるのも、わかる気がする。
決断の重さに躊躇することはないのかと訊くと、
三浦院長は、「自分は外科医だから」と言った。
前にも書いたことだが、
三浦院長の行動原則の根本には、
「外科医としての自分」がある。
「批判されることは、あまり怖いと思っていません。
というのも、まず行動しないといけないので。
外科医って、この手術できますか、できませんか、
というところで存在の意義が
決まってしまうようなところがあります。
その人に技術があれば、その手術ができる。
技術がなければ、できないって言うしかない。
そういったことで、どんどん鍛えられていくわけです。
そうすると、自分が病院長という立場になったときも、
やっぱり、できるか、できないか、なんです。」
つまり、たじろぐ隙間さえ許されない、
ということである。
躊躇とか、逡巡とか、迷うとかいう
選択肢がそもそもない。
判断はすなわち行動で、
やるしかないなら、やるしかない。
「たいへんなことが起こって、
なんとかしなくちゃいけない。
みんなは何を望んでいるのか。
ほんとは何をやるべきなのか、それはわからない。
だとしたら、まずやってみるしかないと思うんですね。
とにかく、進まないと。
だって、お店壊れて、病院壊れて、
市役所も壊れて、機能しないわけですよね。
そのなかで自分たちの
やらなくちゃいけないことはなにかっていうと、
その場で考えて、その都度、行動していくしかない。
現状把握ができていない国の発表なんて
待ってたんじゃだめで、
自分たちで、なんかしなくちゃいけない。
なんとかするしかない。
水と電気はかろうじてもってるけど、
ガソリンや燃料はほとんどない。
東北自動車道は通れない。新幹線も動いてない。
原発の事故でドライバーが福島に入るのを拒否してる。
でも、どうにかするしかない。
薬はさいわい備蓄がありましたし、
まわりの薬局と連携することができました。
透析ができなくて困ったんですが、
けっきょく、患者さんを連れて、
会津をはじめ、かなり遠くまで行きました。
もちろん、道は崩れてる状態ですが、
何時間かかっても、行くしかないんです。
物資は止まってましたが、
親交のある東京の大学教授に現状を知らせたところ、
報道各局に投げ込みのメールをしてくださって、
テレビ局が来て、全国放送してくれました。
それがいろんな人の目にとまって、
県外から福島空港へ物資が届きはじめました。
‥‥この写真は、淡路島に住んでいる方が、
ご自分のセスナを自分で操縦して、
物資を届けてくださったときのものです。
福島空港の方も、空港の中に
私たちの救急車が入ることを許してくださって、
物資を受け取ることができました。」
公立岩瀬病院に限らず、
福島県にかぎらず、東北に限らず、
4年前の東日本大震災のとき、
多くの人が自分なりに考え、行動を起こした。
通常時の、本質を伴わないルールや原則を飛び越え、
「こうあるべき」という行動を、
人々は当たり前に優先させた。
あれから4年が過ぎて、
あの、「当たり前の行動力」を、
自分たちが忘れかけているようにぼくは思った。
震災や、被災地を、忘れてはいけない、
風化させてはいけない、と言われるが、
あのとき、多くの人たちが感じた、
「なにかせねば」というじりじりした思いや、
ふつうの人たちが起こしたなんらかの行動、
もしくは、なにか行動しなければと思いながら
なにもできていないというもどかしささえも、
忘れないほうがいいのだろうとぼくは思う。
もうひとつ、
三浦院長がくだした判断のなかで、
伝えておきたいものがある。
震災の直後、3月13日、
福島第一原子力発電所の事故を受けて、
三浦院長は院内で放射線被曝対策の講習会を開く。
前日の12日、福島第一原子力発電所から
半径20キロ圏内の住民に避難勧告が出ていた。
述べたように、公立岩瀬病院は
原発から59キロの場所にある。
そして、放射線の影響と対策について、
考えられる限りのことをみんなで共有したあと、
三浦院長は、すべてのスタッフに
自主避難を許可する。
つまり、この病院を、このまちを、
離れてもいい、ということである。
「そのかわり、行き先は教えてくれと言いました。
理由は、給料を送るからです。
働く場所も住む家もどうなるか
ほんとうにわからないような状況でしたけど、
お金は必要ですから。
で、戻ってくるなら、もちろん受け入れます。
戻って来ない場合は、当たり前ですけど、
職はなくなります、と言いました。
それは、脅しみたいなことじゃなくて、
一時避難は許可するし、給料も払うけど、
音信不通のままだと退職になるよということです。
それを伝えると、自分自身の覚悟も固まりました。
俺は残るから、っていうことでもありましたから。」
一時避難の期間ははっきりとは決めてなかったという。
つまりそれは、ルールを定めたのではなく、
ポリシーを伝えた、ということだったのだろう。
「ルールを細かくつくる暇はありませんでしたから」
と三浦院長は当時を思い返しながら言う。
「そこで、ひとりひとりにきちんと
判断してもらったのは大きかったと思います。
ちゃんと放射線の講習会をやって、
自分たちの体をどう守るかということも
それぞれきちんと判断しよう、と。
やっぱり、病院に勤めているわけですから。
知識やデータを頭に入れて、判断する。
講習は、まず放射線科の先生にしてもらいました。
その後も何度か講習会をするんですが、
2回目からは私が放射線技師といっしょにやりました。
私もレントゲンとX線をつかってますから、
被ばく対策の基礎はありましたので。」
その院内での講習会は、
やがて、須賀川市のあちこちで開かれる、
一般の方に向けた
「放射線と被ばくについての講演会」につながっていく。
「おもに、お子さんのいる方に向けて、
合計75回、講演会をやりました。
私は、専門家じゃありませんし、
県外から専門の先生、大学教授といった方も
いらっしゃることがありましたから、
はじめは遠慮していたんですけど、
呼んでくださる方は、
『同じ場所に住んでいるお医者さんが
話してくれることに意味がある』
とおっしゃるんですね。
たとえば、3月13日に雨が降ったとき、
私は自分がつかった傘をどうしていいかわからなくて、
どこにどう置いていいか、すごく迷ったんです。
そういう話があると、集まってくださった方が
まず、心を開いてくださるんですね。
ですから、講演会といっても、
授業のようなものではなく、
ここで暮らすうえでの実践的な知識の共有になります。
放射線を家のなかできちんと測って、
2階と1階だったら、屋根の近い2階のほうが
数値が高かったりしますから、そういう場合は、
お子さんの寝床を1階に移しましょう、とか、
そういう説明をしていきました。」
講演会には、多いときで500名の方が集まったという。
そして、科学的に安全であるということを説明するだけで、
頭ごなしに批判されることも少なくなかった。
「ほんとに大丈夫なのかって、
ものすごく批判されるんです。
とくに、『安全だ』『大丈夫だ』という
ニュアンスのことを言った瞬間に
ガンガン言われるんです。
『大丈夫だ』とは断言してないんですけどね。
まあ、いまだから明るく言えますけど、
自分が悪いことをしたわけでもないのに、
あんなに批判されたのははじめての経験でした。
4年前の夏がいちばん講演会が多かったんですが、
エアコンは入れてませんし、放射線対策で
窓も閉めているところがほとんどでしたから、
とにかく暑くて、身も心もボロボロになりました。
でも、乗り越えるしかないですよね。
こういう言い方なら伝わるかな、ということを、
ひとつ、ポンと投げかける。納得されない。
じゃあ、って、またポンと投げかかる。
ということを、何回も何回もやるんです。
そういうことを75回もやったのは、
ほんとうにいい経験になりました。
もちろん、絶対に納得されない方もいるんですが、
質疑応答をやって、延々と答えていたりすると、
講習会が終わったあとでも、
お母さんたちの列がずらーっとできたり、
ありがとうございますって、お礼を言われたり。」
そういった活動を通して痛感したこととして、
三浦院長はつぎのようにまとめてくださった。
「安全というのは、科学的な根拠で示すこと。
安心というのは、自分たちの心でつくること。」
もともと、自分の思いをことばにすることに
意識的だった三浦院長は、
震災後の活動を通して、
さらに多くのことばを獲得していく。
冒頭に紹介した理念をつづったノートは、
あれからもずっと新しいことばで埋められていき、
冊数を重ね、いまでは25冊目になっているという。
(つづきます)
2015-03-26-THU