443.情がうつる。
今日の『the親戚新聞』も、
ちょっと他人からのコメントはできない内容です。
ただ、無理はしなくていいし、
がんばらなくていいから、
また、退院して猫のことなんかを書いてください、と。
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「2001年11月11日午後4時15分」
たしか6歳の頃だったと思う。
ガンジーは両親を前にこんなことをいった。
いつかはおかあちゃんたちが死んじゃうだね、
悲しいなぁ、と。
おやじがほざいた
「お前のお嫁さんをみるまでは死なないよ」
悲しいといったか寂しいといったかはよく憶えてないが
その時の状況ははっきりと記憶してる。
畳みのうえに寝っころがって目から涙がとまらなかった。
それが小学校のころには
「くそババァ!」だもんね。
もちろんこれは本心ではない。
さらに長じてタスデ美と知り合い逢瀬をかさねるうちに
親兄弟のことは2の次ぎになってしまった。
今、死にめんして最後までそばにいて欲しいと思うのは
タスデ美と出来ればこどもたちだ。
情が移るというが
人間はどうして身近にいる人を
大切に思うようになるんだろう。
女子高生の卒業式でよく見かける情景は、
わたしたちいつまでも友達でいよう、という
おきまりの文句だが、
これだって結婚と同時に忘れはて
子どもが出きる頃にはもう
どうでもいい存在になってはいまいか。
身近にいないと忘れちまうんだね。
悲しみや苦しみははやく忘れたほうがいい。
でも忘れるってほんとにいいことなんだろうか。
死んだ子の歳を数える、なんて
愚痴っぽいいいぐさに聞えるが
これがほんとの人間なんじゃないか。
お世話になった人、忘れられない人っているはずだよね。
ニューヨークの瓦礫の下で死んでいった人たちは
どんな思いで旅出ったんだろう。
あの人にもう一度会いたい。
その思いでみずからの死への恐怖なんか
感じてなかった人だっていたんじゃないかな。
その時思いうかぶのはもちろん
共に生活をしている人々だろうね。
ヨチヨチ歩きのこどもにとって
母親は天下唯一の存在だ。
ちょっとでも姿が見えないと
まるで気が狂ったように泣き出す。
やがて成長して中学に入る頃には
「このくそババァ!」
になっちゃう。
なかには母親をひっぱたいちゃうガキもいる。
情がうつるというのは
時間の長い短いではないのかもしれない。
いとおしむ気持ちは
男女親子の間だけではないんじゃないかな。
あの人の夢をなんとか叶えさせてあげたい、
どうかご無事の人生を歩んで欲しい、
そんな気持ちになる人だっているだろう。
タスデ美に今度こそ思いきっていうつもりだ
「おれが息を引きとったら
せめてカップラーメンが出来あがる時間ぐらい
手をにぎっててくれよ」ってね。
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自分の病気を「他人事のようにしか思えない」と、
不思議がっていたガンジーさんですが。
(つづく)
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