へなちょこ雑貨店。 一寸の虫の五分のたましい物語。 |
第3回 じゃあ、店でもやるか。 まいどご来店ありがとうございます。 26 two-six は、オープンしてから5ヶ月が経ちます。 開店当初から現在にいたるまで、 よく言われることばのひとつに 「夢を実現するなんてスゴイね」というものがあります。 思えば、まだ何も手をつけていない状態のときから、 店を開くつもりだということを言うと、 ハンで押したように「夢があっていいね」と 返ってきました。 こう言ってくださる方々のお気持ちは伝わりますし、 ほめていただいているのだから、ありがたいと思います。 でもじつは、ちょっと、いやかなり違うんだなあ、これが。 ほんと、ごめんなさいって言うくらいなんですけども。 会社を辞めたオオタケとわたしは、 「第1回 企画会議」を開きました。 輝く第1回めの議題は、「なにする?」。 おお、簡潔。 なにか、やりたいことがあったのなら、 たぶんこんな議題にはならないと思うんです。 つまり、わたしたちの場合は 「先に夢があった」わけではなかった。 会社生活において「脱力」し、 会社員が向いていないんじゃないかと思ったわたしたちは、 できることならそこに戻らなくてもすむ方法を 探そうと思いました。 でも、働かなくてはメシを食っていくことができない。 そのくらいのことは、さすがに分かる。 2人ともだれかに養ってもらうということは、 会社員より向いていない気がしていたから、 自分が働くのが前提。 じゃあ、「なにする?」というわけです。 実際、当時のわたしたちにとって、 新しく始める仕事の内容はなんでもよかったんです。 どんなことなら、 わたしたちにも「可能性」があるだろうか?、という、 引きぎみの姿勢で会議は続きます。 「できることをしたらいいんじゃないか」。 これはとりあえず前に進むのに役立つキーワードでした。 その時点で決まっていたことは、 「オオタケとオガワでなんかする」ということだけ。 でも、おたがいの手をとり合って、 「2人でやろうねっ!」と約束したわけではありません。 そんなことあえて言うのって、こっぱずかしい。 これは2人の性格と経験から、 暗黙の了解で決まっていました。 世の中の「脱サラ組」 (今はこんな風に言わないのかしら?)は、 どんな方法でメシを食いつないでいるのだろうか? まったくピンときていなかったわたしたちが、 まずしたことは「起業家向け雑誌」の代表格、 『アントレ』を購入することでした。 そこには毎回、独立し、成功したひとびとの 記事があふれていて、 カメラに向かってほほえむ「起業家」たちの表情は、 自信と照れくささのようなものが入り混じっています。 インタビューの記事には、 「ある日、自分が関わっている仕事のすきまを埋める アイデアを思いつき、『これだ!』と思って独立、 仲間を募ってスタート、資本金はいくらで、 今じゃ年収はン千万」とか、 「料理が得意な姉が、 販売の仕事をしてきた妹を誘って、 有機野菜のみを使用したお惣菜屋を開いた、 今では近所の住民のみならず、隣のまちからも、 そのお惣菜を目指してはるばる買いに来る」 などとあります。 ふむ、なるほど。 アイデアとか、得意なことね。 えーーーーーーーーーーっと。 わたしが「得意なこと」はずばり、「単純作業」。 単純作業に必要な要素は 「めんどくさがり」であることです。 あえて、言い切ってみました。 しかし、めんどくさいからといって 何かをはしょってしまうのは、間違い。 もれなく二度手間がついてきます。 よけい、めんどくさい。 めんどくさがりなひとは仕事をもらってすぐに、 効率よく終わらせるにはどうしたらいいかなあ、と まず考えます。 これとこれを一緒に作業して、あれはあとにして、と 一通り頭の中でまとめるだけで、かなり違う。 自分で言うのもなんですが、 単純作業ならわたしにおまかせ。 オオタケはわたしに輪をかけて単純作業の鬼。 ダイレクトメールの封入作業の手練れ。 しかし、そんなのなんの自慢にもならん。 そこには少しの「アイデア」もない。 ビジネスにつなげていくだけのアイデアとはなんだ? アイデア、アイデア、アイデア……? 結論。 アイデアが浮かばない「単純作業請負い業」に 明日はなさそうだ。 ――ということで、この案は、却下。 ほかにも昔とった杵柄で 名刺などの少部数印刷を承ってみるか、 などと考えましたが、オオタケが、もう承りたくない、 というので却下。 じゃあ、SOHOを立ち上げて入力の仕事でも? いや、おそらくその世界は、Macintoshじゃなくて Windowsが主流だからいや、とか言って却下。 せっかくだから、やりたくないことは、 やんないでおきましょうや。 では、わたしたちに「できそう」なことはなんだろう。 では、小売業なんてどう? こちらはだいぶ現実味がありました。 簡単そう、とかいうんじゃないです。 あくまでも、現実味があったというお話です。 まず、オオタケは大阪の商社に勤めていた時、 百貨店内での販売にも携わっていました。 百貨店での販売経験というのは、 なんだかすごく説得力があったものです。 応用というか、ツブシがきく感じ。 しかも、本社からのスタッフとして 売り場に顔を出していましたので、 全体の流れもつかんでいたようです。 そしてオガワの方は、実家が小売業をしていました。 百貨店から急激に規模が小さくなるのですが、 わたしの実家は、どこの小学校の近くにも、 お約束のように存在した「駄菓子屋」でした。 売り上げなんてささやかなものでしたが、このおかげで、 わたしには商いをするということへの抵抗感が まったくありませんでした。 この抵抗感のなさというのは、 「ま、店をはじめりゃ、食っていけるさ」という 気楽さではなく、むしろその逆です。 わたしの家は祖母と母が店番をし、 父はサラリーマンという兼業農家ならぬ、 兼業商店でしたので、 「なんとしても店の売り上げだけで食っていく」という 発想がハナからなかったんです。 だから、現在店をやりつつ、バイトしているという状況も、 わたしにとっては、ごく当たり前に近い感覚なのです。 これはちょっと、特異な感覚なのかもしれません。 ところで、父親がサラリーマンなのに、 なぜ、うちは店をやっていたのでしょう? 今の今まで、疑問に思ったことがなかったんですけど、 考えてみたら不思議。 わたしが生まれる前から父はサラリーマンだったとはいえ、 たしか昔はもうちょっと、 店の売り上げがオガワ家の収入源になっていたと思います。 駄菓子のほかに文房具なども置いていましたし。 でも、私が中学校に上がる頃には、 小学校の「指導」が厳しくなり、 駄菓子屋にたむろすることは「いけないこと」となり、 文房具ですら学校が決定したものを 配付するかたちになっていたので、ぜんぜん生活の 「たし」になってなかったような気がします。 それでも店を続けていたのはなぜだろう? それはたぶん、 「小学校の前の店付きの家」に住んでいたからです。 それだけ? 話を戻しましょう。 小売店をやってみようという話を進めていくなかで、 オオタケが「結果の分かりやすい仕事がしてみたい」と、 言い出しました。 今までの経験では、大きな流れのなかに巻き込まれ、 不条理感を抱きながらも、またすぐ次の仕事の流れへ、 ということの繰り返しだったことから、 こんな発言が飛び出したようです。 モノが売れ、そこに売上げが発生する、ということは 分かりやすく、まさにぴったりとあてはまる気がしました。 そんなわけで、2人で「店を開く」をやろう! ということが、なんとなく決まっていったのでした。 (つづく) ※文中、太字部分は、編集部へなちょこ番によって、 施されたものです。
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2000-06-15-THU
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