── | こんにちは、TOBIさん。 |
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TOBI | ごきげんよう、「ほぼ日」のみなさん。 |
── | 第3回を迎えた「ひどい目。」ですが、 本日は 「亡命ロシア人から借りた 築400年のアパルトマンで 壁の電話回線が火を噴き、 中から盗聴器が出てきた件」 という、 二重の意味で「キナ臭い」話であると。 |
TOBI | いかにも、そのとおりです。 ただその前に、重要な予備知識として 「パリの厳しい住宅事情」から まずは、説明させていただきましょう。 |
── | 承知しました。お願いいたします。 おばあちゃんたちの原宿と呼ばれ、 とげぬき地蔵で名高い 巣鴨地蔵通商店街を気ままに散策しながら、 どうぞ、お願いいたします。 |
TOBI | パリって街は慢性的に物件不足なんですよ。 住みたい人に対して、部屋が少ない。 |
── | そうなんですか。 |
TOBI | 比較的、治安が良くて家賃も安い物件だと、 もう、ほっといたら 見学の行列が「100人」超えちゃう勢い。 |
── | 大家さん、選びたい放題じゃないですか。 |
TOBI | しかも、せっかく並んでいたのに 「もう14人目で決めたから帰ってくれ」 とか言われることもよくあります。 |
── | ちなみに、パリのアパルトマンというのは 石とか煉瓦造りだから 築年数とか、ものすごいんですよね? |
TOBI | 短くないパリ暮らしの経験から申しますと、 「150年、200年は当たり前」です。 |
── | 日本で言ったら、江戸時代。 |
TOBI | 1970年代に建設されたアパルトマンには 「最新建築」とあるくらいです。 |
── | 築40年オーバーで「新築」とは。 |
TOBI | そのような住宅事情のなか、 ぼくも、ようやく部屋を借りることが できたんです。 築400年のアパルトマンを‥‥ね。 |
── | 古い! |
TOBI | 入居してオッケーの連絡が来たとき、 「これで、 やっと人間らしい暮らしができる」 と思いました。 なにしろ、それまでは 「9平米の縦長の部屋」に住んでいたので。 |
── | 狭い‥‥。 |
TOBI | 狭いし、縦長すぎて、 部屋の中で人とすれちがうこともできず、 住んでいると 「トコロテンを押し出す器具に入れられた トコロテン」 みたいな気持ちになる部屋でした。 |
── | 複雑な心境ですね。 |
TOBI | それに引き換え、築400年の新しい部屋は 36平米、バスタブなしでシャワーのみ、 でもトイレは別の、1DK。 家賃は6万円、8階建ての4階でした。 |
── | 「9平米の縦長」から「築400年」へ。 でも、入居できて何よりでした。 |
TOBI | 大家は、アメリカ在住のロシア人女性で、 ニジンスキーさんと言いました。 年齢はおそらく40代の後半くらい、 まるで化粧っけがなく、 シカゴ大学で ロシア語を教えているということでした。 |
── | ニジンスキー教授、というわけですか。 |
TOBI | 「眉毛が、ものすごく太いんだけど、 毛量が少なくて垂れ下がっている」 という 外見的特徴を持った女性でした。 「薄墨で描いたペイズリー柄」みたいな。 |
── | 個性派ですね。 |
TOBI | そして 顔面が「金のうぶ毛」で覆われていました。 いえ、顔面だけでなく、 肩にも腕にも手の甲にも‥‥身体の隅々に。 |
── | 金のうぶ毛が。 |
TOBI | はじめて会ったのは7月のことでしたが、 ニジンスキー全体が 夏の陽光にキラキラと煌めいていたのを 覚えています。 |
── | 国が国なら、拝まれそうな。 |
TOBI | そして、なぜだかわからないけど 彼女のうぶ毛は、 会うたびごとにフサフサになっていき、 出会いから数年後には さながら「金のイエティ」のように なっていくんですが‥‥それは、それとして。 |
── | ええ。 |
TOBI | ニジンスキーは「審査」をしなかったんです。 |
── | 入居の? |
TOBI | そう。 先ほども言いましたが 人気の物件には希望者が群がるため 「ど・れ・に・し・よ・う・か・な? おまえにしようかな‥‥やっぱやーめた!」 みたいな目に遭ったりもするんです。 |
── | そんな、地獄の閻魔の気まぐれ裁き的な。 |
TOBI | でも、ニジンスキーの出していた物件は 「早い者勝ち」だったんです。 通常は、大家に、自らの品行方正さを どれだけアピールできるかで 入居が決まるため、 ぼくも、スーツを着たり髪の毛を黒くしたり、 気合を入れて面接に臨んでいたんです。 それでも 数えきれないほど落とされ続けていましたが。 |
── | 今回は、そういう「値踏み」がなかったと。 つまり「いちばん乗り」だったわけですね。 |
TOBI | そう。ただ‥‥。 |
── | ただ? |
TOBI | 「ひとつだけ、 絶対に守ってもらいたい条件がある」と。 |
── | ‥‥ほう。 |
TOBI | トイレとリビングをつなぐ廊下の上の方に、 錠の下りた収納がある、 そこだけは決して手を付けないでくれ、と。 |
── | それは「鍵のかかった天袋」みたいな? |
TOBI | そう、部屋は貸してやるけれども その扉だけは絶対に開けないでほしい、と。 まったく気にならなかったといえば 嘘になりますが、 そのぶん家賃を少し安くしていると言うし、 まあ、いいかと思い契約しました。 |
── | はい。 |
TOBI | そのまま、とりたてて変わったこともなく、 2年の月日が流れていきました。 その間、ぼくの「職業」については ニジンスキーには 別段、知らせていなかったんですが‥‥。 |
── | 夜な夜な、ピンクの衣装に身を包み、 歌って踊ってるってことを? |
TOBI | もし出ていけと言われたら あの、つらい「トコロテン部屋」に 戻らなければならない‥‥。 その恐怖から、黙っていたんです。 でも、3年目の契約更新のときに、 部屋干ししていた レ・ロマネスクの衣装を、見られてしまって。 |
── | なんと。はたして、大家ニジンスキーは‥‥。 |
TOBI | ピンク色の衣装に激しく反応し、 「何なの! あなたは何をやってるの!」 とまくし立ててきました。 ぼくは、かくかくしかじか、 夜な夜な仮装して歌って踊っているんですと こわごわ打ち明けたら 「あなた、何て素晴らしいの!」と、涙目で。 |
── | まさかの大絶賛? |
TOBI | そう。 |
── | 金色のイエティが ピンク色のレ・ロマネスクを大絶賛‥‥。 |
TOBI | そして、ぽつりぽつりと 彼女の「半生」を、語りはじめたんです。 |
── | ははあ。 |
TOBI | 彼女、レジーナ・ニジンスキーは、 モスクワにほど近いコルホーズで生を享けました。 旧ソ連の時代、モスクワの女学校で 演劇を学んでいたとき、パリへ亡命したそうです。 親友とふたり、祖国をひそかに夜行で発ち、 監視の目を盗んで、陸路パリへ。 |
── | 自由を求めて。 |
TOBI | 時はペレストロイカ以前、ゴルバチョフ以前。 政府からの締め付けが厳しく、 自己表現したくて、命からがら逃げてきたと。 |
── | ねずみ色の管理社会から、芸術の都へ。 |
TOBI | 貧乏や空腹に耐えながらフランス語を学び、 苦労しながらソルボンヌ大学へ通い‥‥。 そのとき、親友と借りて住んでいたのが 「その部屋」だったらしいんです。 |
── | つまり、トビーさんの借りた部屋? |
TOBI | そう。そして、 ソルボンヌでロシア演劇を研究しているときに シカゴ大学へ呼ばれるんですが、 その直前、たまたま隣の部屋が空いたので、 ぼくの借りた1DKをニジンスキーが、 隣の部屋を親友が、それぞれ買い取ることにし、 親友は隣へ移っていったのだと。 |
── | そして、ニジンスキーさんは、 シカゴへ行くため、部屋を賃貸に出す‥‥と。 |
TOBI | そのような物語を とつとつと語っていたニジンスキーでしたが 話が演劇に及ぶや、 にわかに、興奮しはじめました。 |
── | ははあ。 |
TOBI | 金髪のカツラや純白のタイツ、 ピンクのホットパンツなどを指さして 「若かったあたしが 祖国を、モスクワを飛び出した理由が ここにある!」とかって言って。 |
── | どういう演劇なんだろう‥‥。 |
TOBI | 最後のほうは、 話がよくわからない方向へ逸れていき、 「この部屋は あなたの前にパリジェンヌに貸したら 壁を全面、蛍光緑に塗りたくられ 便器をゴールドに塗りたくられて閉口した、 あたいの思い出の部屋に そんなアヴァンギャルドは必要ないし 日本人は奥ゆかしいから そんなことをしない民族だと聞いてる、 だから、一人目のあんたに決めた」 と、ひとしきり 大声でまくしたてて帰って行きました。 |
── | あはは、はた迷惑な人ですね。 そしてピンクはオッケーだったんですね。 蛍光緑やゴールドはダメでも。 |
TOBI | そうみたい。 |
── | ともあれ追い出されなくてよかったです。 |
TOBI | うん、それはそうなんですけど‥‥ そんなことがあってから、どれくらいだろう。 ニジンスキーの親友が買い取ったという、 「隣の部屋」にね‥‥。 |
── | ええ。 |
TOBI | その部屋って、 ぼくの知る限りずっと空き部屋だったんです。 ポストはチラシであふれかえっていたし、 アパルトマンの構造上、 うちのベランダから室内が丸見えなんですが、 カーテンもついてなかったから。 |
── | はい。 |
TOBI | でも、あるときに、気付いたんです。 いつからか、ものすごく目つきの悪い男が 住みついているってことに。 |
── | え? |
TOBI | いつのころからか、 隣の部屋の暗闇に光るふたつの目玉が、 じぃっと、こっちを見ている。 そのことに、気付いたんです。 |
<つづきます> |
2014-08-12-TUE |