第四回
北斎は35歳の時に破門になりました。
ほぼ日
ぼくらが知らない
若い頃の北斎とは
どういう人だったんですか?
永田
北斎がどういう出だったかってことは、
よくわからないんです。
生まれたのは本所割下水、今の墨田区あたりですが
幕府御用鏡師の家の出だとか、
あるいは、それは叔父さんだという説もある。
北斎の生まれっていのはよくわからないんですけど、
北斎の母方の曾々母が忠臣蔵の討ち入りの時、
赤穂浪士に殺されちゃった
小林平八郎だったってことは
北斎自身が語ってるんですね。
それが事実かどうかもよくわからない。
いずれにしろ、小さい頃から
貸し本屋の小僧になったり、
木版彫刻を学んだりっていてます。
小さいころから労働してますから
普通の庶民の子供だったという風に思います。
ただし、絵描きになる以前の唯一の資料である
木版画も木版画の本自体も
行方がわからなくなってますから、
絵描きになる前のものは、
何にも残ってないんです。
ほぼ日
なるほど。
永田
北斎は19歳の時に
勝川春章という浮世絵師の弟子になります。
春章は当時大変な売れっ子です。
ただ、北斎がどういう
ルートで一門に入ったかは
わからないんです。
当時の入門する時のしきたりとして
「束脩」(そくしゅう)と呼ばれる
お金なり物なりを贈らなくちゃいけないんです。
ランクの低い方の木版彫りをやっていた
北斎が束脩を
はたして誰から出してもらったのか。
自分で出したのかっていうことも
よくわからない。
それが絵描きになる前の時代ですね。
北斎は弟子になった翌年の8月に
初めての作品を発表します。
それ以降、35歳までが春朗という名前で、
勝川春章の弟子として、活動します。
この時期は、
春章のお弟子さんとして、
春章風なもの、あるいは
それから少しはみ出したもの
を描いてた時代です。
この時代はつい最近までは、
習作の時代。
つまり絵を勉強していた時代だと
考えられていたわけです。
これが色々調べていくと
とんでもない枚数を書いてますし、
既に色んな画家の作品の影響受けてますから、
相当に色んなことを勉強し始めていたのは事実です。
[春朗時代の絵2点]
鍾馗図
葛飾北斎美術館 蔵
(画像下部のナビゲーションボタンで、
図版を拡大して、細部をご覧ください。)
ふく清女ぼう 中村里好
東京国立博物館蔵
(画像下部のナビゲーションボタンで、
図版を拡大して、細部をご覧ください。)
35歳の時に、
北斎は破門をさせられたと
伝えられますが
その後すぐに、
俵屋宗理という名前で画界に復帰します。
これはまったく浮世絵とは違う分野で、
近世の初期に、桃山時代に、
京都に俵屋宗達という人がいました。
この人は装飾画の人なんですが
その人の流れを汲んだのが尾形光琳。
その弟が尾形乾山ってのがいますけど、
これを光琳にちなんで、
琳派って呼びます。
二美人図
MOA美術館蔵
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夜鷹図
細美美術館 蔵
(画像下部のナビゲーションボタンで、
図版を拡大して、細部をご覧ください。)
その琳派の流れってのは
大体上方だったんですが
江戸で初めて紹介したのが
俵屋宗理っていう一派なんです。
どういうわけか北斎は
そこの頭領になっちゃうんですね。
画風もまったく今までのものと違うでしょう。
ほぼ日
素人目にもわかるほど
あからさまに違いますよね。
永田
ええ。画風もまったく違いますし、
それから普通の版画は
描かなくなっちゃうんですね。
ほぼ日
版画とこういう絵のジャンルに対して
当時、あれは軽いものだとか、
あれは素晴らしいものだとか
そういうヒエラルキーみたいなものは
あったんですか?
永田
それはないです。
ただ、宗理っていう一派に、
きっとそういうもの描いちゃいけない
という決まりがあったと思います。
いずれにしても、
普通の版画や役者絵みたいなものは
なくなってしまうんですね。
版画に関しては、
その当時、江戸では狂歌が流行りました。
狂歌とは和歌をパロディ化したものですね。
例えば私は永田ですから、
永田の周りに狂歌の好きな人が集まると、
永田組みたいな、
それを連とか側とか言うんですけど
永田なら永田側というものができるわけです。
江戸の町にはいくつもそういった
連や側があって
そういう人たちは
どういうことしたかっていうと、
自分たちの作ったもの、
狂歌を発表したいわけですね。
ほぼ日
うん。
永田
そこで皆でお金を出し合って、
自分達の狂歌を木版で彫ってもらって、
それに因んだ絵を絵描きに
描いてもらって配りました。
そういうのを摺物といいます。
普通の版画は商品ですから
コストを考えて作りますけども、
摺物はみんなでお金出し合いますから
コストを考えないわけですね。
ほぼ日
自費出版の同人誌みたいなものですね。
永田
そうです。
狂歌のものは1枚のぺらぺらですけど、
そのぺらぺらの紙を半分に折って、
また違うもの刷って
また半分に折って重ねて
糸で綴じると本になっちゃいます。
そういうのを狂歌絵本と呼ぶのですが
当時、北斎は摺物や狂歌絵本の名人として
大変な評価を受けるんです。
柳の絲
慶応義塾蔵
(画像下部のナビゲーションボタンで、
図版を拡大して、細部をご覧ください。)
(続きます)
永田生慈(ながたせいじ):
1951年島根県生まれ。
太田記念美術館副館長兼学芸部長、
葛飾北斎美術館館長。
著作に
『北斎漫画』
『葛飾北斎歴史文化ライブラリー』
『北斎の世界―Hokusai』
『物語絵北斎美術館』
他多数。
2005-10-24-MON
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