鈴木 |
映画って、流れている時間を
どうやってホンモノに感じさせるか、
というものとして進化してきたんだと思います。
ホンモノを目指す動きとしては、
たとえば、ふつう映画で野球が出てくると、
投げる人と打つ人とは別のカットで撮影しますよね。
ところが、『がんばれベアーズ』という映画では、
女優のテイタム・オニールが、
ホンモノのストライクを投げられるまで訓練して、
カメラをキャッチャーの真後ろにおいて撮影する。
あれは、カットを割らないことによって、
おもしろくなっている映画なんです。
華奢な身体なのに投げる姿に、感動したりできる。
ぼく、ああいう
「ほんとうにやってくれる」ものが好きなんです。
昔の『座頭市』なんかでも、
勝新太郎さんは、一瞬のうちに数人斬るカットを、
ワンショットで見せてくれるんですよね。
ぼくは、そういうのを観たくてしかたがないし、
勝新太郎は、そういうことで大ファンでした。
……わかりますよね? そういう気持ち。
たぶん、潜在的には、
ここにいるみなさんだって、
「ホンモノ」が観たいはずなんですよ。
ジャッキー・チェンがかつて人気を博したのは
あの人が「ホンモノ」をやってたからでしょうし。
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糸井 |
はい。ぼくもそういうのが好きです。
ただ、『イノセンス』でもそうなんだけど、
映像でつながらないものをつなげてみることで、
「ほんとうは、つながっていないんだよな?」
と思いながらも、
画像では処理されているもんだから、
観客は、眩暈がするはずなんです。
整合性のない画面の連続を見続けることで、
どんどん、置き去りにされていくんだから。
「この画面を、正当化して観なければならない」
だから、脳がクラクラッとするんですね。
たとえばこの『イノセンス』にしても、
哲学的なセリフが、絶えず垂れ流されるんです。
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鈴木 |
ええ。
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糸井 |
「今の言葉は、あとで
ちょっと、よーく考えてみるから!」
って保留したくなるようなセリフを、
ものすごい早口でいっぱい言うんです。
そして、そういうセリフの応酬になる。
あの速度で、あんなに
むずかしい話をできるヤツは、どこにいます?
だけど、そのセリフの応酬って、
「絵の連続のなさ」とまったく同じだと、
観ているうちに、わかったんですよ。
だから、
「やっぱり、この一族のやりかただ」と。
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鈴木 |
なるほど! 鋭い。
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糸井 |
観てるうちに、
セリフにクラクラさせられる。
「今言ったことはなんだっけ?」
と考えて、やっとわかったときには、
また違うことが耳に入ってくる。
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鈴木 |
それって、映画の基本なんですよ。
宮崎駿だって同じなんです。
観客の中枢神経をどうやって狂わせるか、
っていうのがテーマなんです、やっぱり。
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糸井 |
確かに、そう言えばそうですね。
アニメの人は、自分では何回も観ているから、
平気で置いていっちゃいますもんね。 |
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鈴木 |
はい。糸井さんは、どっちが好きなんですか?
加工しすぎてあるのと、ホンモノと。
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糸井 |
実は、ホンモノというか、
リアルタイムが好きなんです。
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鈴木 |
なるほど。
糸井さんは、たぶん西欧人なんですよ。
たとえばアニメーションにしても、
西欧の作品は、ほんとうの立体に則している。
ところが、日本人が描く絵っていうのは、
外国人から見ると、どう考えても
立体ではありえないものに見えちゃうんです。
日本のマンガにしろアニメーションにしろ、
そのときの都合によって、
角度を変えることで、ヘンなものを見せるんですね。
たとえば、ちばてつやっていう人が
描いていたマンガは、家族で揃って
テーブル囲んでご飯を食べてるときは、
その部屋が、四畳半で描かれているんです。
ところが、いったんお父さんと子どもが
ケンカをはじめたとするでしょう?
その四畳半の部屋が、
突然八畳になったりするんです。
で、ケンカがおさまるとね、また四畳半に戻る。
西欧人は、そういう歪ませ方を、しないんです。
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糸井 |
それは、畳の部屋が、日本人にとっては
寝室であり食堂であるのと、
おんなじようなことですよね。
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鈴木 |
そうそう。だから、
時間と空間を歪めるっていうのは、
日本の大きな特質で。
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糸井 |
それはそれで、ぼくも好きかもしれないなぁ。
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鈴木 |
でしょう?
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(明日に、つづきます!) |