インターネット的。 これって、どういう本なのか? |
#2 技術と思想がくっついている 昨日のdarling談話の続きの前に、 ほぼ日スタッフ・メリー木村による豆情報です。 14日土曜の昼間に紀伊国屋新宿本店に行ったら、 2階新書コーナーに『インターネット的』があったの。 「あるんだねぇ、やっぱり」と、よろこびながら、 「背の低い棚の一番上に、 何十冊も積まれてるから、目立つね!」 とか思った矢先、32歳くらいの男性がサッと取って いそいそとレジに向かっていったんですよう・・・。 いい人だ。 編集担当の三島さん(京都出張中・6月22日で26歳)に、 さっそく電話しちゃったよ。 「三島さん、本屋に着いて一分もしないで目撃っすよ」 「東京でもさっそくですか! うれしいですねえ」 「うん。かなりうれしい」 「うれしいうれしい!」 「よかったー」 「よかったよかった!」 (・・・その後の歓談、略) 『インターネット的』 糸井 重里 (著) ¥660 PHP新書 PHP研究所 ; ISBN:4-569-6164-3 ※今回、ほぼ日での発売はいたしませんが、 ネットで欲しいと思われたかたは、ぜひ、 bk1やアマゾンで、どうぞ。 (※『インターネット的』のページに直リンクです) では、昨日の談話の続きを、お届けいたしますね。 ----『インターネット的』を、 どう読んでもらいたいと思いますか。 糸「『ひとにぎりの人にわかってもらえばいいや』 というつもりでは、書いていなかったですね。 インターネットをはじめる前に 10年くらい考えてきたことと、 インターネットに触れてからのことを、 『自分は実際、どう考えている(いた)のかな』 と、ひとつずつ考えながら、冷静に書きました。 できれば、大勢の人にばらまきたいぐらいなの。 まったくのおじさんおばさんに読んでもらって、 『昔の人の言っていることと同じじゃない?』 と思って欲しいですし・・・。 ぼくが『ほぼ日』で町人文化や落語に よく触れているんですけど、その世界だって、 ある意味、インターネット的なんですもん。 リンクはしているし、上下関係はフラットだし、 みんなで豊かさをシェアしているからね。 もちろん、すごく若い人にも読んでもらいたい。 『将来、どう生きていこうかなあと思っているけど どうも先輩方を見ていると息苦しそうだ』とか、 『フリーターをやりたいと 思っているわけじゃないけどフリーターで、 力が余っているような気がして暮らしている』 みたいな子たちにこの本を読んでもらって、 『もしかしたら、いまの時代に生きていることで、 俺、得したんじゃないかなあ?』 と思ってもらえたら、最高だと思います。 その真ん中くらいにいるおおぜいの人たちには、 たぶんインターネットのことを 体でわかっている生活をしているんだけど、 逆に言うと、 『道具として使いすぎていて、 慣れすぎて、どういうことをできるのか、 わかりにくくなっているかもしれない』 という位置で読んでもらえると嬉しいです。 道具の使いかたのなかに、いろいろな意味があって、 そっちのほうが、道具そのものよりも、 ずっと大事なんだよ、というのが、 この本のひとつのメッセージでもありますから。 インターネットを語りたいんじゃなくて、 ぼくが眺めてみたいし期待をしているのは、 『インターネット的である状態』なんです。 去年の夏に、 『技術だけを身につけて何でもできる、 なんてことは、ありえないわけです。 例えば、かたちだけシナリオになっていて、 <ト書きの書き方>みたいなのだけが いくらできるようになっても、 「そこでいったい何を書きたいのか」 「自分はいったい何をしたかったのか」 「どう自分の価値観を投影させるのか」 そういうものがなかった場合には、 どんなに形式の上でわかっていても、 シナリオではないと思うんですよ。 シナリオの分野だけじゃなくて、 広告のコピーを書くにしても 商品計画を立てるにしても、 具体的に言えなくてもいいんだけど、 「どうなることが、いいのだろうか?」 ということに対して、きちんと 方向性を出せるものしか価値を生まないんだと、 この歳になってはじめてわかりました』 みたいなことを、しゃべったんですよね。 それが『インターネット的』を作る中でも もとの考えにもなっていますけど、 『技術は、思想とつながっているんだ』 というのがわかると、気持ちいいんですよ」 (※この話については、去年8月連載の 『クリエイティブってなんだ?』の第16回をどうぞ) ----技術と思想がつながっていることについて、 少し、詳しめに話してもらえますか。 糸「『こうやれば売れます。当たります』 『このテクがあればこんなことができる』 と思っていろんなことをやる人は、 まだ今もいて、その技術を使うんだろうけど、 『それ、やりたいの?』って言うか・・・。 技術を使ってやれることがあったとして、 その先にどうしたいのかという気持ちがないと、 言葉が空中で蒸発してしまうんですよね。 実はぼくは、そういう 『コトバ・空中蒸発系』 の人だと思われていたんでしょうけど、 そう思われていたがゆえに、 すごくこのことについては考えさせられたの。 『またイトイはクチからでまかせを言って、 あいつはハメルーンの笛吹きじゃねえか』 っていう見方をされていたし、 ぼくも、違うよと思いながらも 『この笛には俺の気持ちがこもってるんだ』 とも言い返しきれないところがありました。 でも、『ほぼ日』をはじめて、 毎日毎日、お客さんの顔を見ている中で、 『あ、俺は「コトバ蒸発」ではないんだ』 と、よくわかったんです。 『おもしろがらせる技術がありますよ』 『俺の刀は何でも切れますよ』 『批評では、俺は何でも論駁できちゃいます』 と言われたって、その技術を何で使うの? っていうところに行き着くと思うんです。 マキやワラを、ばっさばっさ切っていても、 『何で、切っているんだろう?』というか。 実際にマキやワラを切っている人たちには、 その理由を言えるんだろうなあと思いますし。 『インターネット的』のあとがきに、 『ああ、おもしろかったと言って死にたい』 と書いたんですけど・・・。 何でわざわざ本の最後に死のことを 書いたかというと、それも、 『何をやりたいのかを考えたい』 『生き物として、まっとうしたい』 という気持ちのあらわれなんだと思います。 『ものすごく有能なまま死んでいきました』 というのは、生き物ではないと感じるから。 それは、技術だけを持っているロボットだから」 (談話は、次回につづきます) |
2001-07-15-SUN
戻る |