石川くん。
枡野浩一による啄木の「マスノ短歌」化。

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
 (石川啄木『一握の砂』より)


第2回 石川くんと十五歳


きょうの石川くんの歌は、
有名です。
いいねえ、有名な代表作があって。
私の短歌も、もっと有名になりたい……。
  *
「不来方」はコズカタと読む固有名詞ですが、
つい、わざと固有名詞はカットしてしまいました。
ごめん。
もちろん石川くんにとっては、
「不来方のお城」であることが大切なんだよね?
今、たまたま手もとにある『啄木短歌に時代を読む』
(近藤典彦著/吉川弘文館)をひもとくと、
「不来方のお城」は
不来方城→森ケ岡城→盛岡城と改称を重ね、
その城跡は現在も「岩手公園」として
地元の人々に親しまれているそうです。
でも、
東京生まれの私にとっては長いあいだ、
「コズカタノ」はマクラコトバのようなものでした。
そうでなくても読者なんてものは身勝手で、
各自の心の中の城跡に寝ころぶわけだから、
ゆるしてやってください。
だいじょうぶ、もともと石川くんの歌には、
読者が「自分の歌」にしちゃいたくなるような
普遍性があって、
そこが最大の魅力なんだから。
だいたいお城の草に寝ころんだことある人って、
どれだけいるんだろう?
「お城」自体が架空の記憶の中にしかないんだし、
コズカタが年月の空に吸われて
消えてしまっても仕方ないと思う。
  *
それよりも私は、
「十五歳」というところにこだわりたかった。
この歌って石川くんが
二十代なかばのころつくった歌なんだよね?
つまり、
十五歳のころを回想して歌ってるわけでしょ。
その「回想」であるってことを、
歌の中で明らかにしておきたかったんです。
「十五の心」だと、
心が十五個あるのかとカンチガイされるかもしれないし。
というのは言いすぎだが、
わるいけど石川くんは今では大昔の人なんだから、
今を生きる私たちがこの歌を読むと、
十五歳の石川くんが
リアルタイムでつくった歌かと思ってしまうんです。
そのへんのタイムラグをなにげなく強調してみたつもり。
石川くんは、
わざとあいまいに表現したかったのかもしれないけれど。
  *
ところで昔は今と年齢の数え方がちがうんだよね。
生まれた年を「一歳の年」と数えていたから。
ということは、
十五歳っていうのは今の十四歳?
のちの妻となる節子さんと、
いちゃいちゃしはじめたころだったのかな。
それって犯罪じゃないのかな。(しつこい?)
  *
きょうはここらへんにします。
そういえば、
きのう少し話題に出した尾崎豊に
『十五の夜』という曲があるんだけど、
あれは石川くんの歌を意識してるんじゃないかな。
尾崎くんに会うことがあったら、きいてみて。
じゃあ、また来週。
枡野浩一

http://talk.to/mass-no

2000-05-06-SUN

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