ハブの棒使い。 やればできるか、晴耕雨読。 |
その46 不調和な景色 奄美大島と加計呂麻島の間に広がる大島海峡は、 シーカヤックやダイビングなどマリンスポーツのメッカ。 この辺りは典型的なリアス式海岸なので、 ジグソーパズルのピースのような海岸線が、 天然の防波堤となって海流の流れをやわらげ、 穏やかで美しい景観を生み出しているのです。 海峡を船で通るとしましょう。 すると両島から張り出した岬が次々と眼前に立ち現れ、 行く手は大島か加計呂麻か、はたまた別の小島なのか? 重なり合う島影(実際には岬の影)に惑わされ、 次第に方向感覚、位置感覚がなくなってきます。 この景色、どこかで見たことがある…そう、瀬戸内海です! 昭和31年に町村合併で新しい名前を考える際に、 同じように感じた人がいたのでしょう。 大島海峡を挟むこの町の名前は瀬戸内(せとうち)町、 日本人誰もが抱く平和で温和な海の代表格にあやかって 現在ではそんな名前がつけられています。 しかしこの地、戦時中までは別の顔を持っていました。 入り組んだ地形と凪いだ湾は絶好の要塞だったのです。 今でこそ、奄美大島の中枢は名瀬ですが、 第二次大戦時まで南部の古仁屋(こにや)が中心でした。 この一帯、早くは明治時代に海軍の石炭貯蔵庫が築かれ、 大正に入ると要塞司令部が置かれ、また軍港も開かれ、 昭和7年には陸軍の弾薬庫が設置されています。 戦前から軍事拠点としての体裁が整えられてきたのです。 大戦中は特に海軍の前線基地として役割を果たしました。 なんでも戦艦大和も寄港したこともあるらしい。 今も各地に戦跡が残っていて、 ふとした折りにそんな場所に出くわすと、 名状しがたい気持ちに胸がつまる思いです。 瀬戸内町手安に残る旧陸軍弾薬庫跡 古仁屋の隣の手安(てあん)集落に常時解放されている 弾薬庫跡に入った際、暗い庫内から見た外の明かりが なんとまぶしかったことか。 大島海峡の端にある無人島、江仁屋離(えにやばなれ) に渡った際、いきなり出現した兵舎跡の夏草が なんとたくましかったことか。 加計呂麻島の安脚場(あんきゃば)集落の高台に残る 砲台跡に登った際、場を占領する野生化したヤギたちの なんとほほえましかったことか。 でも、一番強烈な印象を残すのは、 やはり呑之浦(のみのうら)の特攻基地跡でしょう。 青年将校の島尾敏男は海軍特攻隊の指揮官として 加計呂麻島の呑之浦に駐屯し、出撃を待ちました。 舳先に250kgの爆薬を積み、敵艦に体当たりして自爆する 水上特攻兵器「震洋」に、彼は自ら乗り込むはずでした。 昭和20年8月13日、ついに出撃用意の命令が出て、 覚悟を決めた二日後に待機状態のまま戦争は終わります。 その極限状態が『出発は遂に訪れず』以下の文学作品を、 駐留地でのミホとの燃える愛が極北の私小説『死の棘』を 生み出す原点となったわけです。 薄暗く奥深い格納壕とそこに復元された震洋艇は 周囲の美しい海とあまりに不調和にたたずんでいました。 |
2001-04-13-FRI
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