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年末年始スペシャル!
『糸井重里500分』
今回のインタビュアー
今泉清保アナ
第9回 コピーライターになった日

(※ひきつづき、今泉アナによるインタビューです)


今泉 大学を辞めて、ぶらぶらして、
しかも、積極的に何かを生み出して
お金にしてるってとかっていう状態では
なかったわけですよね。

そこから、これから先、
どうやって生きていこうとか思いましたか?
糸井 あてがないから、困ってました。
いろんな専門学校を思いつくんですよ。
帽子のデザイナーになるんだとかいって、
東京デザイナー学院とかの願書を取りに行ったり。
でも本気じゃないんだよね。
願書取りに行って、それで寝ちゃうんだよね。
取りに行っただけで、終わりになっちゃうんだよ。

その専門学校に、卒業制作品なんて飾ってあると、
「なんだ、たいしたことねぇなぁ」
自分のことが心配だから、とにかく、
人のことを馬鹿にするしかないんですよ。


そういう中にコピーライターがあったんです。

知りあいがそういう学校に行っていて、
「儲かる」と言うんです。
当時のぼくにとっては、肉体労働の仕事が、
いちばんバイトとしていいので、
それをやってた最中でした。

例えば、千葉の習志野の
日大の生産工学部の体育館を建てる現場だとか、
そういうところに、寝泊まりしてたんです。
そういうバイトも、汽車に乗りあわせたおじさんに
誘われてはじめたことだったり、するんですけど。
今泉 なんか、世の中に余裕があった時代ですね。
糸井 そうだよね。
「どうするつもりなんだ?」
とか、親も言わないんです。

「今、左官やってんだよ」とか
「鳶やってんだよ」とか言えばよかったんです。

ただ、鳶とか左官の働きが1日2500円で、
それでもバイトとしては最高にいいと思いました。
だけど、コピーを1本書くと、
5000円って聞いたんですね。

そりゃもうやりますよ。
「俺はもう、それでいく」って。
5000円なんだったら
100本でも200本でも書いてやろうって
その仕事をやるための学校に行きました。
今泉 コピーライターっていう職業っていうのは、
当時、どんなものでしたか?
糸井 新聞の広告で、手芸教室の通信教育と並んで、
「鉛筆一本で高収入」ってあるイメージです。

あとは、山口瞳、開高健っていう2人が、
後のサントリーの宣伝部の広告文案をやっていて、
その仕事がコピーライターっていうんだ、とか、
石ノ森章太郎さんが、広告代理店を舞台にした
漫画を書いてるんですよ。そこで
代理店同士の丁々発止みたいなのをギャグにした
テレビ小僧みたいな漫画があって。
そういうところで、覚えてますね。
職業としても、知ってる人は知ってた時代です。
今泉 その職業に飛びこんでみて、どうでしたか?
糸井 ラクでしたよ。
ただ、就職してみたら薄給で、
仕送りがなかったら食えなかったですね。
今泉 はあ。当時の初任給って
2万円っておっしゃいましたよね。
糸井 うん、29800円とかです。
近所の同じ職業の人は6万円だった。
俺はそこまでいかないとしても、
5万円ぐらいはもらえるんじゃないかと思って、
すごくたのしみにしていたんだけど、3万弱。
しかも、給料日に、打てないのに麻雀に誘われて、
15000円ぐらい取られちゃって、
涙を流しながら、家に帰ったよ……。
今泉 はじめての会社勤めは、
糸井さんにとってはどうでしたか?
糸井 たのしかったですねぇ。
学校よりも会社の方が楽しかったです。
変なヤツってことになっていたので、
治外法権で、すごい助かりました。
コピーライターも俺しかいないから、
俺がやるしかないんですよ。
先輩がいるということで入ったんだけど、
その人は、
「今日君が来てすぐに言うのも何なんだけど、
 ぼくは明日から別の会社に行くんだよ」
と。
だから求人してたんです。
今泉 (笑)
糸井 学校に通って、
それなりの優秀さがあったので、
就職の面倒を見てもらえたんです。
おまえはああいうところに向いてるだろう、と
原宿の、ロン毛の人の多いような会社に
行くことになったんです。でも、ぼくは
「ロン毛の多い会社なんかダメだ」
と思ってたんです。
でも、その会社しか行く会社はなかったんです。
今泉 当時のロン毛ってどういう位置ですか?
糸井 ヒッピー、フラワーチルドレン。
今泉 会社では自分も
ロン毛にしなきゃいけなかったんですか?
糸井 いや、ぼく自身も、もともとロン毛ですから。
今泉 (笑)そのくせダメだと思ってたんですか?
糸井 うん、「そんなのはダメだ!」と思ってた。

その広告会社って、どういう会社かというと……。
ひとつのロケで
5社ぶんぐらいの服を積んで、
ひとりのモデルで
その5社の広告2か月ぶんぐらいの写真を撮る。
それで、写真ができたら、
「できたから、コピーお願いね」って言われる。
そういうところです。でも、おもしろかった。

原宿のセントラルアパートっていうのが、
当時は、情報最先端基地みたいなところで、
音楽の話でも何でも、雑誌に載っているものより
ずっと新しいものが飛びこんできてました。

会社にいようが喫茶店にいようが構わないから
喫茶店にいりびたってました。
まぁ、もうからない会社だから、
つぶれそうになって、
みんながどんどん辞めていって、最後は
ぼくと社長だけになっちゃったということで、
フリーになったんですけどね。
社長とは仲がよかったので、最後までいたんです。

最後は、事務の女の子もいなくて、
「社長さん、いないの?」と怒鳴る電話に出たり、
家賃が遅れたときは大家さんのところに
菓子折りを持ってあやまりに出かけたりしてた。
今泉 聞いていると、会社の状態は、
夜逃げ3日前みたいな感じですよね。
糸井 そうです。

(つづきます)

2004-01-01-THU
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