ほぼ日の塾
教えるつもりになったら、
教えられることは、
たぶん、山ほどあります。

「ほぼ日」が「塾」という場所を持って、
そこが新しい「出会いの場」となる──。

それは、いろんな面で、
とてもいい思いつきだと思われました。
あちこちで、さまざまにプラスの作用があり、
それ自体をコンテンツだと考えても、おもしろい。

ですから、すぐにでもやるべきだろうと、
客観的には判断できたのですが、
その一方で、たったひとつの
簡単なツッコミが入るだけで、
おっとっと、と、
つんのめってしまうこともわかっていました。

「教えることなんてあるの?」というひとことです。

外部からのツッコミとしても返事に困りますし、
同僚から真面目に訊かれても答えづらく、
そしてなにより自分が自分にそう問いかけます。

教えられるのか、という問いに向き合っていたら、
おそらくいつまででもはじめられないでしょう。

そもそも、ほぼ日刊イトイ新聞は、
明確なルールや約束が極端に少ないメディアです。
たとえば「ほぼ日」には
全体の表記統一に関するルールがほとんどありません。
そのページ内で統一してあれば、
ほかの記事との統一は細かくチェックしないのです。
具体的にいうと、「言葉」と書いても
「ことば」と書いてもOKなのです。
一人称の出し方や、写真の使い方などにも
とくに決まりはありません。
コンテンツをつくるにあたっての心得のようなものが
箇条書きになっているわけではないし、
マニュアルなんて当然ないですし、
新しく入った人が必ず受ける研修などもありません。

ですから、
「教えることなんてあるの?」と言われると、
とても困ってしまいます。

けれども、「ほぼ日」のコンテンツをつくる誰もが、
「どうしてこれをこうしたのか?」と訊かれたら
はっきり、その人なりに道筋を答えられると思います。
おそらく、ぼくだけでなく、誰でも。
なぜなら、その都度、真剣に考えているからです。

そういえば、迷ったときに立ち戻るような、
根本的な価値観のようなものもありますし、
それは違うんじゃないか、と、
足を止めて考え直すときの明確なポイントも
いくつかあるように思います。

そういったことは、
教えるつもりになったら、教えられるかもしれない。

教える場がないときに、
「教えることなんてあるの?」と訊かれると
教えることなんてないような気がするのですが、
いざ教える場がはじまってしまえば、
教えられることは、たぶん、山ほどある。

その意味では、唯一最大の問題は、
「ほぼ日の塾」という教える場をはじめる直前の、
一瞬のためらいのようなものだけだったといえます。
しかしその短い躊躇は、
問題を見越していた糸井重里が、
「あれこれ考えずにはじめるんだよ」と言って
あっさり吹き飛んでしまいました。
たしかに、はじまってしまえば大丈夫なのだから。

そういうことって、よくありますよね。
回っている大縄のなかに入るようなこと。
グラグラしている歯を抜くようなこと。

「ほぼ日の塾」は、述べたように、
テキストや教材はありません。
その場、その場で、つくっていく授業になると思います。
たぶん、授業の軸はふたつあって、
ひとつは、上で少し書いたような
「ほぼ日の原則」をお伝えすることです。
そしてもうひとつの軸は、
受講するみなさんからの「質問」に答えることです。
「ここが知りたい」「これを知りたい」という
思いのこもった「質問」があれば、
きっと、あっという間に時間は過ぎると思います。

ちょっとした教材をつくって、
わかりやすい「べからず集」を提示して、
受講者の「授業を受けた感」みたいなものを満たすことは、
たぶん、それだけを狙えば
比較的簡単にできると思いますが、
おそらく、それは当日の満足にはなっても、
翌日からの実生活には役立たないと思います。
そうではなくて、もっと根っこのところに作用する、
「なんだかよくわからなくて混乱したけど
 たぶん大切なことだと思うので
 これからもしばらく考え続けてみる」
というような授業になればいいなと思っています。

ご参加をお待ちしています。
どうぞよろしくお願いします。


2015年11月

「ほぼ日の塾」講師 永田泰大

永田泰大(ながた・やすひろ)
ほぼ日刊イトイ新聞乗組員。
2003年からさまざまなコンテンツを制作。
イベントの企画や書籍制作も手がける。

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