境界は「甘え」の分量。

── 『クラッカーMC'S』のなかには、
のちの名曲『サマージャム'95』に使われる
フレーズが出てきますよね。
ボーズ ああ、そうですね。
「誰のせい それはあれだ 夏のせい」
っていうフレーズ。
これもまぁ、もともとは、
「当たり前だ」っていうことのひとつとして
『クラッカーMC'S』に出てきたんですけど、
『サマージャム'95』のときに、
シンコがここをスクラッチして使うんです。
糸井 横尾さんが自分の作品を
新しい絵のなかにまた描いてる、
みたいなことだね。
ボーズ そういう感じだと思います。
なんていうか、曲と曲をまたいで、
フレーズとか世界がつながっていく、
みたいなことはすごく好きで。
あと、人のことばとか
ドラマのセリフとかといっしょに
自分たちのそういうフレーズが並んでる、
みたいなこともね、なんか、
美しいというか、気持ちいいというか。
糸井 うん、うん。
ボーズ それで、最後に総合的に
別の絵が見えるのがいちばんかっこいい。
糸井 たしかにそうですね。
あと、思ったんだけど、
どこかからなにかを拾ってきて、
つなぎ合わせていくっていうつくりかた自体は、
デジダルな方法論だとも思うんだけど、
スチャダラパーの場合は印象が
まったくデジタルになんないんですよね。
まぁ、実際に作業が手作業っていうか
アナログっていう部分も多いんだろうけど。
ボーズ なんなんですかね。
たぶん、こういうものが、ただデータとして
自分らの中にあるわけじゃなくて、
やっぱ、ポンと降りてきたものを、
お互いに探し合うからかもしれないですね。
「そのとき来なかったものはもう会えない」
っていうか、
「そのとき来たきみがありがとう」
みたいな(笑)。
糸井 うん、うん。
あと、「季節は」と聞いたら、
もう自然に「めぐる」って
出てきちゃうみたいなことって、
デジタルじゃないものね。
もう、体に染みこんでるっていうか‥‥。
ボーズ そうそう、そうなんです。
やっぱり、『ザ・ベストテン』を観てた頃の
歌詞がポンと出てくるみたいなことって、
すごくよくある。
糸井 それはぼくも、原稿書いたり
しゃべったりするとき、いまだにありますね。
人の歌のフレーズをこう、
ずらしたり、ひねったり、自然にやっちゃう。
ボーズ うん。
糸井 なんなんですかね。
とくに引用したいというわけでもなく、
なんていうか、そういうことばが
もう、景色みたいになってるんですよね。
ボーズ そうそう。
糸井 だから、うーん‥‥
例をあげられるといちばんいいんだけどな、
考えると出てこないね、うーん‥‥。
ボーズ ま、くだらない例ですけど、
ぼくらがいちばん新しいアルバムでつかったのは
「ごらん あれがミッドタウン 元防衛庁」
っていうフレーズで。
糸井 ははははは、そう、そういうの。
ボーズ 「ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと」
っていう、あの印象がすごい強くて。
糸井 『津軽海峡冬景色』ね。
それをもじっちゃうっていうのは、
売れなかったレコードから
シンコがいいフレーズを探してくる、
みたいなことですよね、つまり。
ボーズ もう、そうですね。
そのへんぜんぶ、同じ気持ちなんですよね。
レコードの中からヘンなフレーズだけを
サンプリングしてきたりとか、
ヒット曲のフレーズがポンとつながったりとか。
糸井 そういうことって、
ヘタすると冷たくなっちゃうんだけど、
ボーズくんたちがやると
冷たくならないんですよね。
それは、自分でつくるものについても
そうだと思ってるんだけど。
なんなんだろうね。
ボーズ うーん。
糸井 すごく勝手な話に聞こえるかもしれないけどね、
そういう、なにかをもじったり、
どこかからちょっと借りてきたりすることって
自分のつくるものでやってるときは
大丈夫だと思えるからやってるんだけど、
これを、冷たくマネされちゃイヤだな、
って気持ちがすごくあって。
ボーズ うん、うん、わかります。
ぼくらはとくに、サンプリングっていう
ほかの人のレコードの「ここ」っていう部分を
借りて使うっていうことをよくやるんで、
そこのマナーというか
「それはパクリじゃないんですか?」って
言われたときのボーダーラインみたいなものが
すごく説明しにくいんですよ。
糸井 ああー。
ボーズ もう、単純に、「愛があるからいい」とか、
そういう説明のしかたもあるんですけど、
ほんとにさじ加減ひとつで変わるっていうか、
ここまではいいんだけど、
そこまでやるとぜんぜんアウトっていうか、
「それパクリ!」ってことになるので(笑)。
糸井 使う人と使われる人だけじゃなくて、
聞いてる第三者にも、
その境界はわかったりするしね。
なんなんだろうねぇ。
ボーズ 難しいんですよ、それ、すごく伝えにくくて。
微妙な話でいうと、たとえばぼくらが
ふだんからなかのいい誰かといっしょに
なんか曲をつくろうよっていうときに、
「じゃ、ここのこれをこう、
 このまま、こういうふうに使ってさ」
って言ったときに
気持ちが合わないときがあるんですよ。
糸井 ああー、「気持ちが合わない」。
ボーズ そうなんですよ。だから、
「あ、そこまでやるとちょっと行き過ぎかも」
みたいなことが、
(スチャダラパーの)3人だと
ぴったり合うんだけど、
そこにもうひとり誰が入ったりすると、
「あ、やりすぎかなぁ‥‥」とかなるから。
糸井 それはね、「甘え」じゃないかな。
甘えの分量。
ボーズ 「甘え」。
糸井 つまり、「ここまでは、やっていい」
っていうのは、いわば、
元ネタに対する甘えじゃないですか。
ボーズ うん、うん。
糸井 で、甘えすぎると、
「そんなに甘えると
 あの人(元ネタ)に迷惑だ」っていうふうに
なるんじゃないかと思うんだ。
ボーズ あああー、そうですね。
糸井 で、ここが微妙なんだけど、
ぜんぜん甘えないっていうのも、
ちょっと冷たいと思うんですよ。
ボーズ うん、うん(笑)。
糸井 やっぱり、なんか、
こんなに好きなんだし、
「このくらい甘えさせて‥‥」って。
ボーズ はい(笑)。
糸井 あとは、たとえばぼくが、
自分のつくったなにかに対して、
あれはあれの影響を受けた、とか、
あれのパクリだけどね、なんていうふうに
平気で言えるっていうのは、
まず、入口はたしかにそれだったんだけど、
つくっているうちにどろどろに溶けちゃって、
もう、極端にいうと、
そう言っても信用されないっていうか、
できあがったものを本人が見ても
絶対気づかないだろうなぁっていう
自信のようなものがあるんです。
ボーズ うん、うん。
糸井 でね、その自信のなかにはね、
本人が気づいても「許すだろうな」っていう
自信も含まれてるんですよ。
ボーズ あ、そうですね、そう!
むしろ、よろこんでもらえるんじゃないか
っていう気持ちですよね。
そうです、そうです。
糸井 わかりやすい例だと
清水ミチコのモノマネだよね。
すごく危ない橋渡ってるけど、
これはぎりぎりセーフ、みたいな判断がある。
ボーズ 本人がよろこぶところでとめるというか。
糸井 そうそう。だから、清水ミチコは、
一青窈の楽屋に平気で行くんですよ。
ボーズ はははははは。
糸井 なんか、そのへん?
ややこしい説明になったけど。
ボーズ いや、でも、その説明はいいです。
そういうのがすごく近いです。
糸井 ボーズくんにだから、
ちょっとしゃべってみたかった。
ボーズ うん、わかります。
あとね、できれば、そういう
元ネタみたいなことって、
あとで、どこかで偶然であって
「そうか!」ってわかったほうが
うれしいと思うんですよね。
糸井 あー、それはそうだね。
ボーズ なんか、これはこれっていう、
データとしてじゃなくて、
実際に出会ってもらいたいっていうか。
糸井 それはつまり、ぼくにとっての
「夜になったら寝るんです」。
ボーズ そうです(笑)。
『北の国から』を観てたら出てきて、
「これだったんだ!」っていう。
糸井 うれしいよねぇ、ああいうのは。
ボーズ ぼくらは、そういう爆弾を
いっぱい仕掛けたいんですよ。
糸井 これ、倉本聰さんは怒るだろうか、
とか、そういうぎりぎりのところを
3人で考えたりしながらね。
ボーズ ま、倉本聰さんには
届かないだろうっていう判断で(笑)。
糸井 そっちの自信(笑)。
まぁ、それは住所が違うだろうな
っていうことなのかな。
ボーズ うん。ぜんぜん次元が違うっていうか、
これは届かないっていう自信。
あとは、なんていうか、たとえば
ドラマのスタッフが気づいても
言わないでいてくれるだろうみたいな。
周りのスタッフなら、たぶん、
よろこんでくれるんじゃないかっていう。
糸井 そうそう。
そういう「甘え」なんだよね。
(つづきます)

 

2010-08-19-THU



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