ほぼ日刊イトイ新聞
華道 みささぎ流 家元
片桐功敦さんが生けた、
福島の花。
花/ひまわり 採取地/南相馬市鹿島区南柚木 器/縄文土器(深鉢) 小高区浦尻貝塚 縄文時代中期 大木9式
第3回 2016年7月29日 咲いているときより、美しく。
──
ご本を拝見して、
すぐにわーっと引きこまれたんですが
長靴に生けていた作品が、
なかでも、強く印象に残りました。
片桐
ああ、あれは、いちばんはじめに
現地をウロウロしながら生けたものですね。
花/禊萩 菊芋 百日紅 撮影地/浪江町請戸
──
あ、最初の作品だったんですか。
片桐
撮影現場は原発から6キロくらいの場所で、
当時は、津波のあとが
ほとんどそのまま、残っている状態でした。

がれきの山、倒壊した家屋、
そういう風景が、花や植物で覆われていて。
──
ええ。
片桐
僕は、花を生けることを通じて、
共感してもらったり、考えてもらったり、
心を動かしてもらったりするために
あの場にいたわけで、
何もしないわけにはいかないと思いつつ、
最初は、何をやったらいいのか‥‥。
──
それだけの風景が、目の前にあると。
片桐
自分の生ける花よりも、
花の背後に写り込んでくる風景のほうが、
はるかに、すさまじい。

花を生けてみたところで、
はたして‥‥何かが伝わるんだろうかと。
──
なぜ「長靴」に生けようと?
片桐
どうしたらいいのか、わからないままに、
ぐるぐる歩き回っていたんです。

「あ、あっちにも花が咲いてる。
 あ、こっちにも花が咲いてる」
とか言いながら、
津波で、道かどうかさえはっきりしない、
植物の生い茂った場所を、ぐるぐると。
──
はい。
片桐
基礎だけ残った住居の跡や、
がれきとがれきのあいだを歩きながら、
どう使うかもわからずに、
とりあえず咲いている花を摘みました。

花瓶なんかありませんし、
摘んだ花をどうしようかと考えていたら、
漁港が近かったらしく、
長靴が、たくさん散らばっていたんです。
──
それはつまり、漁業関係者のかたの。
片桐
身につけるものって人に「近い」からか、
存在感が、強烈なんです。

最初は、ただ「うわぁ‥‥」と思って
眺めてただけだったんですが、
そのうち「あ、水、ためられる」って。
──
ゴムですもんね、長靴って。
片桐
それで、水たまりから水をくんできて、
そこに花を生けたんです。

それが、最初の作品になりました。
──
構想していたわけじゃはなく、
偶然、現場で生まれたものだった、と。
片桐
そうですね、たまたまです。

そのへんを散歩しながら
花瓶以外のものに花を生けることは、
これまでにもやっていたので、
自分としては、
新しい手法ではなかったんですけど、
その後の福島での方向性が、
何となく、これで定まった感じです。
──
決して「奇をてらった」わけではなく。
片桐
むしろ、これまでの延長上で、
できることをやっただけといいますか。
──
他方、「縄文土器」に花を生けている、
スタジオ撮影の作品もあります。

ちょっと、すごいなと思ったんですが。
片桐
はい‥‥まあ、ふつうは、
なかなか、許してはもらえませんよね。
──
あちらは、どういった経緯で?
片桐
「いけばな」にとって、「器」って、
切っても切れない存在なんです。

どういう器にどういう花を生けるか、
華道家は、そのことを、
延々、考え続けているといっていい。
──
それほど重要なんですね、器って。
片桐
はい。で、そのとき、単純に、
「日本でいちばん古い器は?」と考えたら、
どうしたって縄文土器に行きつきますし、
縄文土器には
次の時代の弥生土器には失われてしまった
「あやしさ」を感じるんです。
──
たしかに弥生時代の土器って、
かたちからして
道具として合理的に見えますものね。
片桐
それに比べて、縄文土器には、
当時の人類と自然とが未分化といいますか、
融合している、
切り離されていない感じを受ける。

あんな、とぐろを巻いたような器で
煮炊きすることも含めて、
自然、あやしさ、人間の思念というものが、
あふれ出ている気がするんです。
──
ええ、わかります。なんとなく。
片桐
僕は、そういった、火をまつることや
大きな岩におそれを抱くことなど、
何万年の昔から続いてきた、
人智を超えた自然のことわりのようなものに、
自分たちの起源を感じるんですね。

そういう意味で、
野に咲く花を美しいと感じて、切ってきて、
器に生けて眺めるという営み、
つまり、自分の「いけばな」という営みも、
根源的な部分では
縄文につながっていると、思ってるんです。
──
それが、縄文の器に生けたかった理由。
片桐
南相馬に来て、
はじめてミズアオイを見せてもらったとき、
それこそ縄文の昔から、
干拓されて農地となった100年くらい前まで、
この土地には、
ミズアオイが群生していたという話を
博物館の学芸員さんから、聞いたんですね。

つまり、縄文人たちは、
震災後の今と同じような風景を、見ていた。
──
なるほど。
片桐
そのあと博物館へ戻ってきて
「さっきの場所あたりから発掘されたのが、
 この土器なんですよ」
と言って見せてもらったときに、
「ここでミズアオイを生けるとしたら
 もう、この器しかない」と、思いました。
花/水葵 採取地/南相馬市鹿島区真野川河口域 器/縄文土器(深鉢) 小高区浦尻貝塚 縄文時代中期 大木9式
──
でも、博物館さんとしても
きっと、簡単じゃなかったんでしょうね。
片桐
はい、難しいこともあったと思いますが、
最終的には、おゆるしいただきました。
──
緊張したりとか‥‥。なにせ縄文土器だし。
片桐
とにかく、造形自体の持つ力強さに
圧倒されました。

生半可に花を生けたところで、
「ちょっと太刀打ちできないぞ」という、
そういう強さが、あるんです。
──
そうなんでしょうね‥‥。
目の前に置かれたら、なおのこと。
片桐
だから、はじめは、
いつも以上に身構えて、力も入りましたが、
回を重ねるごとに、
徐々に淡々と生けられるようになりました。
──
あ、そうですか。
片桐
ずっと、今、自分が花を生けている器は、
どんな歴史を歩んできたのか、
何千年も昔の人々が、
この器を、
どんなふうに使っていたのかってことに
思いを馳せながら、生けていました。
──
今回、福島での仕事を終えたあとでは、
花や植物に対する考えや思いが、
何か、変わったりしましたでしょうか。
片桐
うん‥‥変わりましたよね、根源的に。

まず第一に、どこにいようが、自分は
そこに花さえあれば
やるべきことをやれるとわかりました。
──
なるほど。
片桐
そして、どこにいたとしても、
しっかり目を凝らせば、
生けるべき花は見つけられるってことも。

さらに、
僕たち華道家は、どこにいたとしても、
その場所と、
その場所に咲いている花とを
結ぶことができる、
ということも、わかりました。
──
自分自身や華道家という職業のことを、
見つめ返す機会になった、と。
片桐
はい、そうかもしれないです。

福島で花を生けることで、
花と、その花が咲いている場所のことを、
ひとつに考えるようにもなったし。
──
いけばなにとっての「場所」ということ。
片桐
これは、自分の中で、
まだまだ深めていく必要がありますが、
この仕事を通じて、
「いけばな」にたいして、
「床の間がなければいけない」だとか、
「器がなければいけない」だとか、
そういう考えは
自分の頭からは一切なくなりました。
──
はい、よくわかっていないながら、
片桐さんの作品には「自由」を感じます。
片桐
そういうものがそろっているところでは、
そういうふうに生ければいいし、
なければないなりに、
同じ強度で、花を生けることができる。

そういうようなことも、
この仕事を通して教えてもらいました。
花/喇叭水仙 撮影地/浪江町請戸
──
今、片桐さんが
「いけばなとは?」って質問されたら、
何て答えますか?
片桐
床の間で、器に生けられているという姿が
一般的な「いけばな」のイメージですが、
それは、
「いけばな」のひとつにすぎないと思う。

「花を生ける」という営みには、
何て言ったらいいのか‥‥人の思いとか、
場所の歴史とか、人類の記憶とか、
もっと大きなものに繋がっていると思う。
──
なるほど。
片桐
そこのところを、わかりやすく紐解いて、
人に伝えて、「いけばな」を
もっと身近に感じてもらうってことに、
僕はこれからも、心を砕くと思うんです。
──
はい。
片桐
なにせ、花って、華道家が何をしようが、
絶対的に「きれい」じゃないですか。

それをわざわざ、
僕たちが切ったり姿を変えたりする以上、
そこには、何らかの意味だとか
感じてほしいこと、
知ってほしいことがあるわけであって。
片桐功敦さんの過去の作品より
──
「いけばな」は、きれいなだけでは、ない。
片桐
「いけばな」にとって「技術」は、
もちろん大事な要素です。

でも、同時に、
それほどたいしたことでもないよなあ、
とも思うんです。
──
どういう意味で、ですか?
片桐
きれいな花を切る、持って帰る、水に挿す。
その姿を眺めて、
「きれいだな」という感情が発露する。

それが「いけばな」のすべてだと思うので。
──
そう聞くと、すごくシンプルな営みですね。
片桐
花をきれいに生ける技術は、
鍛錬によって、磨くことができます。

でも本来、大事なのは
「きれいな花を切ってきました、
 だから、少しでも長く眺めていたくて
 水に挿しました」
という気持ちのほうであって。
──
はい。
片桐
その気持ちのないところで
いくら「花を生ける技術」だけがあっても、
花、きれいじゃないですよ。
──
なるほど。
片桐
いつも、僕が心の中に置いている言葉、
「咲いているときより美しく」
という言葉は、
その気持ちに関わっていると思います。
<おわります>