最高の大衆映画として、迎えたい。
糸井重里
映画を観ているときに、よく思うことがある。
もし、ぼくが、
まったくなんの知識も持っていないままで
この映画を観たら、どういうことを感じるのだろうと。
人類に歴史はあるし、
ひとりの人間にも生きてきた
経験というものがあるから、
否応なく何かを知ったり
憶えたりしてきている。
だいたいの表現というものは、
そこに付け込んでつくられているものだ。
付け込んでいるという言い方は
失礼かもしれないけれど、
当てにしているということだ。
「見る人が見ればわかるはずだ」という言い方は、
ぼくが思うには最低の言い訳だ。
同じような知識や教養を持った人にだけ
わかられようとするような表現を、ぼくは
「だらしない」と感じる人間だ。
共通の教養を強要しなければ
成り立たないような表現は、表現というよりは
「確認」にしか過ぎないものだと思う。
『キリクと魔女』の試写を観るまで、
ぼくはかなり斜めに構えていたことを白状する。
だいたい、フランス映画というものには
懲りていたのであった。
偏見だよ、と言われたらそれまでなのだろうが、
とにかく、ぼくの知っているフランス映画は、
なんだか男が出てきて、女が出てきて、
よくしゃべり、しゃべって相手を追いつめ、最後は
「なんだか人間って、かなしいね」みたいな感じで
終わるというような印象だったのだ。
登場人物たちだけで悩んでいりゃいいじゃねーか、
という感想を持つばかりだったのだ。
しかも、舞台はアフリカで、
なんだか詩的だか哲学的だかというセリフが
いっぱい出てくるというではないか。
文化人類学みたいな研究が
下敷きになってるんじゃあるまいか?
知ったかぶりの「おしゃれ男」かなんかが、
咳払いのひとつふたつしながら
観るような映画じゃないか?
と、想像しても不思議ではないだろう。
もしジブリが関係しているのでなかったら、
おそらくぼくは、この映画を観ようなんて
思いもしなかったのは確かだ。
ところが、だったのだ。
昔々、アフリカのあるところといった
風景からはじまった画面を観ているかぎりでは、
まだぼくは何かを疑いながらの観客だった。
しかし、声だ。まず、声がした。
主人公が最初に声を発するのが、
妊娠した母親の腹のなかからなのだ。
そのことについて、「奇を衒っている」と
ひねくれたとらえ方をしているわけにもいかなかった。
なぜなら、その声の意味している内容が、
ぼくのちっぽけな想像を
はるかに超えたものだったからだ。
「母さん、ぼくを生んで!」。
他のどんな言葉でもだめだと思った。
それしかないひと言だと、ショックを受けた。
あまりにも、「そのまんま」なセリフなのだけれど、
いちばんあり得ないのが、実はここでは
「そのまんま」なセリフなのだ。
「あばらかべっそん」であろうが、
「ぼくはキリクだ」であろうが
「時価総額としての価値は」であろうが、
この物語の荒唐無稽を表すことはできても、
それをリアルと共存させることはできない。
産まれる前のこどもが言葉をしゃべるという
フィクションを、一気に観客に諒解させ
物語内部の常識をわからせてしまうためのセリフは、
「母さん、ぼくを生んで!」以外にはあり得ない。
このセリフを耳にした瞬間に、
ぼくはこの映画を斜めに構えて観るのをやめにした。
しかし、次の瞬間に、さらに追い討ちをかけるような
母親のセリフが続くのだった。
これは、主人公のセリフの単なる受けではなかった。
「母さんのおなかの中で話す子は、
自分ひとりで生まれるの」
というものだった。
この映画の世界では、こどもは母親が産むのではなく、
こどもが自分で産まれるというわけだ。
なんと爽快な考えが語られていることだろう。
観客であるぼくも、隣の席に腰をおろして
スクリーンを見つめている谷川俊太郎さんも、
ほんとうは母親が生んだのではなく、
自分が母親から生まれてきたのが、
人生のスタートだったのだ、というようなことが、
一気に感じられる。
主語は「ぼく」という赤ん坊のほうで、
それは観客のひとりびとりも、
同じように生まれたはずなのだ。これは愉快だ。
ここまででもうわかると思うのだけれど、
この映画を観るための教養や知識は、
いっさい必要ない。
キリクや母親が暮している村の人たちと、
同じくらいの知識を持っていたら、
誰にでもたのしめるという映画だった。
フランスだのインテリだのに対する偏見を持ってきて、
もうしわけなかった。
とにかく、キリクという主人公の後ろ姿を
追いかけていくだけで、
どんどんおもしろくなっていくのだ。
映画を見終わって、
難解なことを語り合うこともできるのだろうが、
ほんとうは誰にもわかるはずのことを、
映画は言っている。
これは、最高の大衆映画だ。
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