武蔵国造
(むさしのくにのみやつこ)の乱


『日本書紀』に記載されていた話。
安閑天皇元年(534年)武蔵国の
笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と
小杵(おき)が国造の地位を争い、
小杵は密かに上毛野(かみつけぬ)の
小熊と手を結んだが、
笠原直使主は大和朝廷に
助けをもとめ小杵を征伐した。
これにより、
横渟・橘花・多氷・倉樔の4カ所に
屯倉を設け献上したとある。
このうち横渟(よこぬ)の場所が特定できないため、
小杵(おき)の本拠地を、
荏原古墳群
(一回目で訪れた多摩川台の古墳群を含む)と
考える南武蔵説と、
埼玉のさきたま古墳群と考える北武蔵説の、
2つに分かれている。



多摩川台の古墳から出土した六鈴鏡は、
上毛野を中心とした北関東で流行したものなので、
その関係性を裏づけるものと考えることもできる。