むかしの暦で、いまを楽しむ。 旧暦と暮らす「ほぼ日」の12か月。
2006-08-22-TUE
旧暦:七月二十九日
旧暦から新暦への切り替え事情。
前回までの基礎知識をまとめますと、
旧暦とは、月を基準にした日付(太陰暦)を、
閏月を加えることで季節とのずれを調整し、
太陽を基準にした二十四節気や雑節(太陽暦)を定めて
季節も明確に知ることが出来た暦である。
──ということになります。
むかしの人は、太陽と月の両方と仲良くしながら、
季節感あふれる毎日をすごしていたんですね。

しかし、そろばんしかなかった時代に。
当時の暦づくりってたいへんだったでしょうねえ!
コンピュータとかないわけですし‥‥

近松先生
近松
ええ、暦は、天文観測とともに、
たいへん複雑な計算をもとに、
算出したのだそうですよ。
それでも、ときどき間違っちゃうこともあって、
計算しなおしたりも、したんです。
そろばんだけでは、うんと先まで計算することも
できませんでしたしね。

つまり、誤差はあるけれども、
それを人が微調整しつつ、
暦がつくられていったわけなんですね。

近松先生
近松
呼び名が多くて混乱しますが、
現行の旧暦は『天保暦』とも呼ばれ、
弘化元年正月朔日、
つまり元旦(1844年2月18日)から使われ始め、
公式使用は、
旧暦明治五年十二月二日(1872年12月31日)を
もって終りました。
天体観測に基づいたたいへん精密なものでしたが、
毎年、微調整していましたし、
最後は人が決めるところも多かったんです。
たとえば小の月と大の月ですね。
これが、いまと違って、毎年変わっていたんですよ。

うわ、では「にしむくさむらい」みたいに
覚えられないではないですか!

近松先生
近松
ええ。だから、江戸の町には、
それをしらせる、しゃれた図版の暦があったんですよ。

わあ、見せてください見せてください!


【絵暦(寒山図)】
大小暦のなかでも、絵の中にその年の月の大小を
判じ絵のようにしたものを絵暦ともいう。
(画像をクリックすると拡大します)

寒山拾得の寒山が巻物を読んでいます。
その内容は
「明和二乙酉年 大 二 三 五 六 八 十」
とあります。
明和二年は、大部分が西暦1765年に含まれます。
つまり、この年の30日ある「大の月」は
二、三、五、六、八、十月であると
いうことを、表現しているわけです。

【安政五年大小暦】
江戸時代幕末の安政5年(1858年)に発行された大小暦。
旧暦は29日を1か月(小の月)とする場合と
30日を1か月(大の月)とする場合があるので、
それが一目で分かるように一枚刷りでつくられた暦を大小暦という。
(画像をクリックすると拡大します)

こちらは安政五年の大小の月を数え歌にしたものです。
大の月は二、五、八、九、十一、十二月です。
メロディは、いまのぼくらにはわかりませんが、
当時の人ならすぐわかって、
このまま歌って覚えられたのかもしれませんね。

ともに、ひろく庶民に流通した木版画です。
こういったものを、年始などの挨拶のときに
配っていたらしいんです。
(余談ですが、「錦絵」の発端は
 木版多色刷りの絵暦だったのです。)

さて、その「大小」ですが、
なぜそれを設定しなければいけないかというと、
そもそも月の運行が29.5日でひとめぐり、だからなんです。
ひと月29.5日というわけにはいかないので、
ふた月1セットにして、
29日の月と30日の月をつくりました。

しかし、29.5×12=354日、ですから、
1太陽年(回帰年)である「365日」より
11日も、少なくなります。
このまま年数がたつと、ずれが大きくなり、
季節との差がどんどん出てくる!
ぐるっと廻ったら真夏が十二月なんてことになる!
それではいけません。

そこで考案されたのが「閏月」(うるう月)で、
約3年に1回、正確には19年に7回、
1年13か月、というふうにして、閏月が入りました。
(前回もすこしだけ説明しましたね。)

なお、十二月のあとに十三月、があったわけではなく、
計算に基づいて、季節がずれないような然るべき箇所に
「閏五月」というようなかたちで閏月が入ったのでした。
ちなみに、旧暦平成十八年は、
「閏月」がはいる年なんですよ。
「七月」のあとに「閏七月」がはいります。

明治政府、財政難を理由に乱暴な切り替え?!


こんなふうに「閏月」の入る旧暦は、
明治五年に明治政府がグレゴリオ暦(西暦)を
新暦と定めるまで、日本の公式の暦として使われてきました。

明治政府が新暦を導入することにした理由は、
もちろん、近代化を進めるために
世界との共通の物差しをもつ、
ということでもあったのですが、
もうひとつ、ちょっと乱暴な理由がありました。

明治政府は、旧暦明治五年の十二月三日をもって
新暦の1月1日(1872年1月1日)としたのですが、
この布告がなされたのは、
年も押し迫った十一月の十九日。
たいへんぎりぎりの発表でした。
それというのも、このときの明治政府は財政難。
翌明治六年は「閏月」がある年なので、
13か月ぶんの給料を、役人たちに払わねばなりません。
その1か月ぶんを節約するために、
1年がかならず12か月である
グレゴリオ暦を採用すべし、となったわけなんです。
さらに明治政府は、もう1か月ぶんの給料を
払わずにすませようと考えます。
というのは、新暦の採用で、
明治五年の十二月はわずか2日しかないので、
これを抹消しようとしました。
この年の十一月は小の月でしたので、
このあとに、三十日、三十一日を設けて、
十二月を消してしまう、という布告を出しました。
これで十二月の給料は払わなくていいだろうと考えたのです。
これで2か月ぶんの給料が浮く!

しかしさすがに「そりゃないだろう!」と大問題になり、
この布告は翌日に取り消されました。
もし、この布告が実施されていたら、
前代未聞の十一月三十一日が生じていたことになります。

歴史に「もしも」はありませんが、
このとき明治政府に潤沢な予算があったら、
いまも旧暦とグレゴリオ暦を併用する日本、
があったかもしれませんね。

──今回はここまでです。
次回は「旧暦の中の言葉いろいろ」について
さらにくわしいお話をきいていきます。
おたのしみに!

近松先生のプロフィール
イラストレーター:玉井升一
詳しくはこちらへ