Kuma
クマちゃんからの便り

美しい瞬間

海から戻り、<誰でもピカソ>の収録。
この日を待ち望んでいた。
ゲストはピアニストのフジ子・ヘミングさんである。
オレは生まれてすぐに左の鼓膜を失っている。
もちろん絶対音感もなけりゃ、
音痴で相対音感も持ち合わせていないが、
残った右の鼓膜と、
頭蓋骨全体から受けるバイブレーションで
日常的には何の不自由はない。
ゲージツでのハンマーで叩く音や研磨機の切削音の絶対音で
過程の異変さえ感じ取れる。
夜中に尺八で吹く<嘘鈴>や<月の砂漠>を楽しむ程度で、
沈黙すら苦にならない。
いつだったか、偶然に観たNHKのドキュメントで
彼女のピアノを聴いた。
強靭なこのヒトの美しい音色が
全身に染込んだような気がした。
もう一度<生>の空気で経験したくて
墨田区のトリフォニーホールに独りで出掛けて
<CAMPANELLA>を聴いた。
やっぱり美しいジカンだった。
頭蓋に残った残音。オレには稀なことだった。
楽器をエンジニアのように
正確に弾くコンクール受賞者たちは大勢いるが、
そんなモノはオレの作業の雑音と変わらない。
番組でいろいろなアーティストを間近で見る機会があった。
しかし、こんなに会いたいと思ったことはなかった。
控室に持ち込んだトリフォニーでのコンサートカタログに
サインをしてくれた後、
わざわざハンドバッグから出したルージュを引き直して
キスマークまで印していただいた。



本番が始まる直前、
彼女はソオーッと胸元で十字を二度切ったのを、
オレは密かに垣間見た。
<CAMPANELLA>を身近で聴いた。
弾き終って突き上げた彼女の掌は天を指していた。
胸が熱くなった。
何十年ぶりかに鼻の奥に水分が溢れたようだった。
オレはすぐにでもFACTORYに戻りたくなったが、
残念ながらもう一本残っていたのだ。

終わって新宿から最終アズサで山梨FACTORYへ。
今回は三日だけのゲージツ・ジカンである。
ミラノから、キューレーターたちが
オブジェを観に来日するまで時間がない。
仕上げとゼニも稼がなくちゃなぁ。
アズサのレール音すら<CAMPANELLA>になって
身体を包んでいた。
快晴の朝八時、シゴト開始。





『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2002-02-26-TUE

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