まだイシダイは遠い
イシダイは強力な海の王者で、
なかなか釣れる魚ではなく
そのイシダイだけを狙う釣り師を
石物師と呼ばれるくらい特別だ。
オレも、高知の柏島に3年間通って、
ひたすら海に浮かんだハエの上から、
朝から晩まで未だ見ぬ海の王者にラインを送り込んでいた。
何度か激しくロッドを叩いてくれたのだが、
一匹も上げたことがなかった。
炎天の日も、激しい雨の日も、
小さく海に突き出した陸の足元に、
変化しながら打ち寄せる潮のなかに
張り詰めたラインを見詰ていると、
特別な絶対コドクのジカンにいるのだった。
船宿に戻って高知の面々と大酒で開放されるのもイイ。
3年前、ハエの上で浮遊感に満ちた
コドク・ジカンに身を任せているとき、
イタリアでのOBJE発表を漠然とイメージして、
その気が強くなっていった。
願掛けのように、オレはイシダイの顔を見ないまま
イシダイ釣りをあっさり封印したのだ。
道具は全部、それまで柏島で世話になった
高知県庁の濱田クンに譲ってしまったのだった。
そして願が叶ったか、この秋のMUDIMAでの個展が決まり
OBJE制作も一段落した。
そんな折に<タカミヤ>の社長から
「九州磯釣連会長の下村要一氏が同行するので、
是非御出でください」
イシダイ釣り誘いのメールが飛び込んできたからたまらない。
ダイコウのロッド、ダイワのリールを買いなおし、
オレの封印はあっさり解けた。
下村会長はスイミングクラブのオーナーで、
オレと同じ年だった。10年来のように初対面で意気投合した。
彼の助手のマンボウ君、崎野青年の二人も同行してくれる。
鹿児島、串木野港から渡しで一時間、甑島<コシキシマ>。
沖の瀬スベリという一級のイシダイ釣りのハエにのった。
三年ぶりの磯はオレをすぐにイシダイの世界に誘い込んだ。
ウニを二個を付けて海に打込んだロッドを、
磯の割目に打ったチタンのピトンに掛けて
マンボウ君はカメラを構え、
世話役の崎野青年と『いよいよ始まったな』と
顔を見合わせたときだ。
ロッドがバタバタとイシダイの動きを伝え始めた。
「ヨシッ、来ました」青年が緊張した。
血は脳天に逆流し胸騒ぎを落着かせ、
オレは腰を低く構えてロッドに手をかけようとする。
同時だった。バシンッ。
ピトンが前倒しになりロッドが一気に海に引っ張り込まれた。
尻手ロープを掴んで何とか遣り取りしたが、
引き込まれた強力なラインは
イシダイの力で張出している棚のフジツボで
切られてしまったのだ。
リールが虚しい無抵抗を巻き上げてくる。
「惜しかったですね、5kgはありましたよ」
青年も悔しそうに言う。
初めてのイシダイを失ったオレは悔しさを通り越して、
頭蓋内は一滴の血液もなくスッカラカンになった。
ピトンの打ち込みが甘かった。
取返しのつかない自分に、
言いようのない虚しさが充満した。
その後、何度か震わすロッドの先を、
イシダイが海面に引き込むことはなかった。
唯一、近い引き込みに合わせて巻き上げると
大きなウツボがラインに絡み不気味にのたうち、
己の身体を噛んでいた。
復帰したイシダイに出会う道のりは遠いわい。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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