クマちゃんからの便り

イシダイを握った

尖っていてフジツボだらけで足場は悪く、
海がしけたり上潮では殆ど沈むハエだが、
大きなイシダイが着いている超一級磯の中でも
一、二のポイントは、石物師の憧れのハエで
何度も上がることは出来ない。
海では渡船の船頭が絶対で下村会長でさえ
六年上げてもらってないという夢のハエである。
会長は<角太郎>をオレに譲ってくれて、
自分は真向かいの<双子の離れ>に上った。
オレと名手崎野青年、記録係りもする<タカミヤ>社員
マンボウ君は、船宿の握り飯 とイシダイの赤貝を持って
ハエに上った。
 
入念にピトンを打ち込み、赤貝の殻を割る。
鈎に剥き身を8個数珠つなぎにして第一投目。
まだゆるいが上げの潮に打ち込んだラインを、
竿先をコントロールして足元の小さな
ポイントに赤貝を16メートル下に導いた。
「いいところに入りました」崎野青年だ。
油断してはイケナイ。さあ、来るんだイシダイ!
すぐ応えるようにロッドの先が激しくバタバタしだし、
一気に引き込む気配だ。来たぞ、来たぞ。
ロッドがグイグイと弓なりに引き込まれる。今だ。
オレはピトンから外したロッドの尻を腹に当て
腰を低くして力いっぱいフッキング。
「イシダイに間違いないです」
声がした。巻き上げる。グググッ、引き込むイシダイの力を
ロッドを絞り込んで凌ぐ。
次にヤツが力を緩めたら巻き上げてやるわい。
3年間高知柏島でも感じなかった、
これがイシダイの力なのか。
オレは掌に生きる力を握っているのだ。
物凄い力でフジツボの岩にオレは無様に尻モチをつき、
見上げるロッドの先は一直線になって凛と上空を刺している。
「ああ…」
青年がうめく。何が起こったのか。
イシダイに有利に棚が張出しているのだ。
ラインはまたも鋸みたいな瀬でぶち切られ、
またもイシダイに見放されたのだった。
あの確かなバイブレーションは夢の中の出来事だったのか?
今、フジツボの突起のうえで尾底骨を襲っている激痛に
ただ呆けるオレ自身の肉体すらが夢幻なのか?
昨日はロッドに触ることなく終ってしまい、
今日は5秒以上は凌いだとはいえ闘いにもならない。
人生すら幻影なのかも知れない。
激突から免れた頭蓋には絶望が詰ったまま
角太郎に転がっていた。
「まだいます。いきましょう」
青年が仕掛けを新しくしてくれマンボウ君が
赤貝をつけてくれた。
「今の写真撮ってしまったかい」
「竿がしなっているところは撮りましたが、
 岩に吸い寄せられたところは、
 頭が心配でカメラを放しましたと」
「ありがとう」
無様な記録は残らなかったが、
3個の頭蓋の中に記憶されてしまっただろう。
その後は大きなウツボ。すっぽ抜け。
向かいでは会長が竿をしならせイシガキダイをゲット。
しかし次に竿を引き込まれながらファイトは、
挙句にすっぽ抜け。
固いイシダイの口腔は鈎の懸かりが悪く
直前でのすっぽ抜けがあるという。
 
最終日、幸運は続いていた。
<角太郎>を三日連続は奇跡にちかいという。
唯一大きな当たりがあったがまたもすっぽ抜け。
試練が続く。
巻き上げてきた鈎に大きなウロコが一枚。



「姫ブダイだったです」
『今回はこれぐらいにしてやる』というイシダイの
海からのメールなのか。飛行機のジカンが迫っていた。
「来た!」
青年が叫んだ。前当たりもなく竿先を一気に引き込み、
ピトンに固定された胴がブルブルと小刻みに震えている。
「ソリャア」
オレは最後の力で引き上げた。
重い。
今までとは違う。
竿の主導権をとるのだ。
巻く。
凌ぐ。
巻上げる。
イシダイだ!
ロッドの腰に載せて一気にぶり上げた。
縞がうっすら残った2.5kgを
海からついに引き抜いたのだ。
7年掛かったイシダイのバイブレーションを
掌に握ったのだった。
 
<Wサッカー>でジャパンが引き分けていたが、
オレはイシダイを抜きあげた。
ミラノ遠征にこんな瞬間をハナムケてくれた
<タカミヤ>社長、下村会長、下野青年、マンボウ君、
イシダイ、ありがとう。
 
MUDIMAから戻ったらまた海に遊びに来る。
青年が取ってくれた魚拓はオレの数少ない宝物だ。



『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2002-06-10-MON

KUMA
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