嘘鈴
オレがフィスカル湖の畔でOBJEを創ったとき、
小さな火炎場の敷地を借りた。
フィスカルといえば鋏で有名だが、
穏やかな湖の雫みたいな眼をした青年は、
真っ赤な鉄を鍛錬して
伝統的なラップランド・スタイルのナイフを作っている
鍛冶屋だった。
代々皮職人の家系らしい彼のナイフの柄には、
トナカイなどの革を巻いて仕上げてあった。
ナイフより片隅の小さなテーブルに、
灰皿やコーヒーカップと一緒に乱雑に放り出してある
掌サイズの硬く黒い革表紙で製本した
分厚いノートの方がオレには気になった。
綴じこんである紙の縁はラフに裁断してある。
オレのFACTORYは大きなOBJEを創るための器だが、
何を入れる為なのか分からない
小さな器も気になる性質である。
小さな器にぴったり納まるモノが見つかると
嬉しくなったりするのである。
「これは売り物かい」
「親父に教わったのを思い出して作ってみたんだ、
まだまだ売り物にはならないけど」
「イイOBJEじゃないか。これ、売ってくれよ」
「何に使うんだ、こんなモノ。
絵を描くには小さすぎるだろう」
彼は不思議そうにオレを見る。
「OBJEとして惹かれるんだ。
何を書くかは分からないけど、
革表紙ごと三本のベルトが中の紙を締めている機能さえ、
無理のないデザインになっているじゃないか」
三冊全てを安く買い占めた。
やっとミラノへのOBJE群の搬出も終り、
霧雨の川を眺めている。大きなFACTORYの窓から
ゆっくり垂直に落ちてくる天水の粒々が落ちる
茂った葉っぱの一枚一枚までクリアーに見えていた。
落ち着きを取り戻して片付けていると
フィスカルで手に入れたあの革のノートが出てきた。
五ミリ厚に切っては、お茶の受けに喰っていた羊羹は、
先日、北野武巨匠が来社のおりに手土産に戴いた
虎屋の<夜の梅>だが、
丁度重量感のある黒がノートと同じ大きさになっていた。
浮遊するオレのカバンに入れる携帯物は極力少ない。
必需品は剃髪用のカミソリ、PC、歯磨き。
結局は読まないまま持ち帰る数冊の本は
いつも邪魔だと思いながら、入れてしまうのが残念である。
何度も読む『唯識』を三、四ミリの文字で
写本することにした。
雨があがった大武川を、握り飯と尺八を腰に散策。
水の音が心地いい。
<水の樹>まで遡り《嘘鈴》を吹く。
夜、四ミリの文字はぼやけてめがねをかけながら書いた
<唯識>の小さな本が三分の一出来上がった。
フィスカル湖でオレの掌に入った縁で、
オレは山の中で<唯識>を写本しながらもう一度読む。
全てのページがオレの文字で埋まって
小さなOBJEが完成したら、
これからのオレの携帯物になるのだ。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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