シシリー釣り便り
今日は大工の棟梁の仕事で来れないピッポから
預かった仕掛けを持って朝の波止場へ 行く。
港で一番小さくボロなレオナルドのも
木造舟はすぐに分かる。彼は今年七十歳で現役 の漁師だ。
波止場といっても金持ちらしいヨットやクルザーばかりに
挟まって、彼のような小さな舟は他に三艘だけだ。
すぐ手前に、少し大きめで
四、五人乗りの巻網漁船ばかりの港があり、
そこには木造船の造船所が隣接していて、
建造中の漁船がまだ竜骨をあらわにして佇
んでいる。
どうして彼がその港に停泊してないのかは分からない。
彼一人だけでいっぱいな甲板
オレまで乗り込むのだから大変で、
網をきれいに畳んで 狭い船倉に詰めていた。
そっちこち剥がれたペンキから
木の肌が現われているうえ、
乗り込み舳先の方は竜骨がむき出しになっている。
レオナルドの人生が刻まれている
OBJEのような舟だ。
しかし、どんな方法で釣るのか見当もつかない。
イタリア語だけの七〇歳と、
日本語の六〇歳を乗せた小さくボロい空間が、
濃い群青色の世界に向けて波止場を静かに離れた。
スピードを上げず沖に出た。
どうやらトローリングのつもりだろう。
オレはピッポから借りた
コルク板に巻いた仕掛けを取り出し、
「これをやるんだろ う」と手で訊いた。
レオナルドは
「そうだ、俺は右舷からながすから
KUMAは左舷から流すんだ」
と手 で応えた。
指先から三十メートルほど流す。
何の問題もないが、海からの反応もなかった。
昨晩、ニノや八十歳になる
彼のオフクロさんと喰ったピッザの残りを喰う。
冷めても充分美味く、
丘に揚がればカミさんが料理を作って待っているという
レオナルドも一切れ喰って頷いた。
ウロコのように家が丘の上まで
張付いているシャッカの町は土の色だ。
断崖絶壁の上にオレの宿が見えた。
『来た』指先が感知したが合わせが遅かった。
レオナルドが
「餌を喰ったらエンジンを止めるから」
と言ってるようだ。
「わかった、今度は声を出すから」
とオレも大きく頷いた。
吸い込まれそうな群青だ。
海からの反応も彼との会話もないまま、
オレは充分海を楽 しんでいた。
「来た!レオナルド!」
指に確かな反応、一合わせしてオレは叫んだ。
彼はエンジンを止めた。
オレはラインを手繰った。
彼方で小さく白く何が揚がった。
しかし手繰りながら、
生活反応に欠けているのが気になったが注意深く続けた。
揚がってきたのは、布製のベルトの切れ端だった。
「こんないい土地で自殺するヤツはいないんだが」
七〇歳と六〇歳は笑い声は共通だ。
「今日はトローリングはダメだな。底モノを狙おう」
と言ってるはずだ。
オレはその仕掛けを出した。
餌もピッポがタッパに凍らせて用意してくれた
イカのコ ドモだ。
二本の鈎の中央に五号ほどの錘を無造作につけてある。
餌の脳天から刺して眼の辺り から針先を出して、
底を取って待つ。
これも竿は使わない。
ゲームフィッシングなぞこの町にはないのだ。
プロの漁師が巻 網で獲るか、
細々と喰う分だけ獲るかしかないのだろう。
ほんの小さな当たりだ。合わせて手繰る。
メバルに似た小魚だった。
それでも集中してなきゃ餌だけ持っていかれる。
レオナルドも餌を取られて悔しがる。
エンジンを切ってから波がボロ舟に当たる音と、
そのたびに木が軋む音だけが地中海 に響いていた。
きっとギリシャ、ローマの古代からの音だろう。
ポリバケツに二人で二〇匹ほど獲って、
丁度餌が無くなった。
「帰ろう」
波止場に戻る途中もトローリングを曳いたが
反応はなかった。
気になる木造船の造船所に行ってみると、
フェンスの扉は閉まっていた。
網目から写真を撮っていると、後ろから野太い声がした。
「入れよ」
と言っているは ずだ。
「グラッチェ」
オレはずかずかと入り込み、
竜骨のまま佇んでいる船を間近で見た。
プラスティックな船体でもなく、
分厚い木を流線型に切り出して竜骨に貼り合せた、
今どき北朝鮮でも造らないだろう力強い船である。
ゲージツ家の頭蓋にまた
新しいインスピレーションを起こさせた造船男たちに
「グラーツッチェ、アリベデルチー」。
「アリベデルチー、チャオ!」
男等はまた何事も無かったように、
大ハンマーを振り上げ分厚い板を
三次曲面に曲げていた。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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