クマちゃんからの便り

さいならシシリー

オレのTシャツに<レオナルドへ>と
カタカナでサインして、朝八時波止場。
色の褪めた紫のシャツを着た彼はすでに舟にいた。
今日も昨日と同じ釣りで漂う。
オレが帰ったあと白内障の手術を受けるという
レオナルドは、七〇歳といっても錨をあげたり、
小さな舟の上を飛び回る脚の筋肉はまだしっかりしてる。
この海が俺の人生そのものだから
他所に行きたいと思ったことがないと言う。
昨日よりチュニジア寄りの沖合いがポイントだった。



パッセンジャーは地中海の底を探りながら、
ヒカリや鉄を溶解させる熱量の具体的なことや、
山梨FACTORYで来る直前までやっていた
自分の新しい方法の展開などに想いを馳せていた。
ウネる海にタライのような小舟が不規則な揺れ方をする。
座る場所なぞないから立ったまま
膝でショックを吸収しながら、
オレたちの二つの頭蓋は地球の中心に垂直を保ち
糸を手繰っていた。
「この舟で弱音を吐かないアンタは、
 この辺りでも何人といない男だよ」
レオナルド が褒めてくれた。
フィンランドでも、ニュージーランドでも、カナダでも、
もちろんジャパンの布良でも、
船長たちに
「まだやる気か」と呆れられてきたんだと自慢した。
泳げないオレが海に漂う舟の上は、
アイデアをまとめたり、
深めたり集中出来るジカンなのである。
掌ほどのハナダイみたいなのが中心に
やっぱり二〇匹ほど。
それでも彼は
「女房との晩飯に丁度いい」と
丁寧にバケツに入れる。
ここに来るまでにマグロ漁へ行く道があったが、
こっちでこんな小さな釣りも贅沢で ある。
どっちにしても時期は
六、七月ですでに最盛期は過ぎていたのだった。
満月の夜、二ノの六十四歳の誕生日。
ピッポもピエトロも二ノのファミリーや
ブラザーがみんな顔を揃えている。
オレもブラザーとして紹介された。
海産物の豊富なシシリー料理は
やっぱりミラノより美味い。
ニノは借家をいっぱい持っている金持ちも呼んでいて、
オレが、もしシシリーでゲージツするなら
家を提供させるように話をしてあるという。
「ミラノになんか帰るなよ」
ピッポは真剣にオレを引きとめる。
ピエトロも
「ここでもゲージツは充分に出来るだろう」
と真顔だった。
「ありがとう、感謝する。
 いつかそんな日が来ればイイけど、
 ここは心地良過ぎて休息には最高だが、
 まだ始まったばかりオレの激しい闘いには勿体ない。
 疲れたらまた来るさ」
みんな両手を広げて残念そうにする。
幾つものジダイを経ながらも
素朴で土色のシャッカの町では、
<生きるヒト>の原点を見たような気がした。
「グラーッチェ、さよなら」
ちょっと切なくなったオレは、
メインに出てきた大きなロブスターの爪で
ピッポの大きな鼻を挟んだ。



ゲージツ兵士の休息もお仕舞いだ。
まだ暗い朝四時、シャッカをひっそりと発って
レンタカーで二時間のドライブで空港へ。
夜明け前の空に稲妻が走っていたが、
パレルモに着くなり土砂降りになった。
パッセンジャーのひっそりした通過は天変が似合う。
一時間半でどんより曇って肌寒いミラノ・リターナ空港。
ほんの五日間の休息だったが、
ミラクルなオープニングさえもう懐かしく思える
ミラノである。
しかし、もう次なるオレのゲージツダマシイの
スターターは始動し始めているのだ。




『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2002-09-26-THU

KUMA
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