クマちゃんからの便り

週刊文春11月10日発売号

10月1日は大原のヒラメ釣りの解禁日で、
オレはミラノに発つ前から1日、2日と予約していたが、
何と天気図に不気味な渦巻きが接近しているではないか。
老眼鏡をかけ、鈎にフロロカーボンのラインを巻いた
大ヒラメの仕掛けを10個も作 りながら、
祈るような気持ちで大原の梅田丸に問合せた。
「ミラノはおめでとう。
 でも台風が近づいていて船は出せないねぇ。
 予約も断っているんだよ。今週いっぱいダメだね」
ホームページを見てくれていた船長も残念そうだった。
くそったれメ!叫んでみても天変には通じない。
ミラノ個展へオレの出発も迫っていた八月末、
梅田丸に乗り込んで釣った生きた小アジを
背掛けにして泳がせ、
三十メートルほどラインを出してヒラマサを狙っていた。
初めての泳がせ釣りである。
密かに、釣れれば個展は無事に開催出来ると
願を賭けていたのだった。
連れの竿にも反応がないまま
なかなかタフな時間が経っていた。
「タイトライン!」ラインが張り掛かった。
竿を立ててフッキングすると、
調整してあったリールのドラッグから
ラインが少しづつ引き出されていた。
巻く、巻く、慎重に大胆に巻いた。
ランディング。
4kgちょい欠けの見事なヒラマサだった。
「ミラノは大丈夫だね」
船長も嬉しそうだった。オレも嬉しかったが、
初めてのヨーロッパでの個展への不安は別物だった。
残り少なくなったゼニの心配のまま、
願掛けは名目で、釣りがしたかったのだった。
「オレが戻る頃はヒラメの解禁日がちかいな。
 御礼参りにまたヒラメ釣りに来るわい」
余裕のオレは、
解禁日の1日と2日を予約してミラノに向かったのだった。
無事の開催ばかりか、
大成功のオレのヨーロッパ・デビューになった次第だ。
MILANO発の<ゲージツ日報>を見た
阿川佐和子さんからの「おめでとう」メールが、
ミラノの宿で開いたパソコンに届いていたのは
感激したものだが、
その後すぐに<週刊文春>の石橋編集員から
阿川さんとの対談を
引き受けてくれないかというメールが届いた。
もちろん「OK」したのだが、
締め切りに間に合せたいから帰国してすぐにという。
対談が終り次第、千葉の大原に向かう予定だった。
お礼参りのヒラメ釣りが諦めきれず仕方がないから、
もう一個仕掛けを作って気を落ち着け、
対談場所にタクシーで向かう。
台風接近の雨の中、9月の最終ゴトウ日は路まで大渋滞。
十五分遅れたが、石橋氏と阿川佐和子さん、
カメラマン、ライターの女のひとがすでに
ライティングや
テープコーダーの準備を整えて待っていた。
「おめでとうございます」対談が始まる前に彼女から、
包装された丸い筒をプレゼントされた。
すぐにオレは中身がアルコールだと思った。
オレのお返しは、
持ち帰りサインをした今回のカタログだ。
少女のように豊富な彼女の好奇心と明晰さに
ヘロヘロになったオレは、
無事デビューしたオープニングの様子、
これからのヨーロッパでの活動から、
出会った少女の美しい感性、
オレのゲージツの原点まで探られてしまった。
ヒラメは絶望的になった雨の中、
独り新宿の地下バー<NADJA>へ。
閑古鳥がうるさい静かなカウンターで
阿川さんからのプレゼントを開く。
何と、オレが大好きなアイラ島の
シングルモルト<LAPHROAIG>じゃないか。
店主のアンボにも一杯だけお裾分け、
ストレートで呑んだ。
もうムカシになったがアイラ島で呑んだ、
赤い川が流れていた荒涼とした景色の味がした。
ヒラメの昆布締めがあればなぁ。





『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2002-10-06-SUN

KUMA
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