ヴェネチア海上浮遊・・・1
一年半ぶりに水の都<ヴェネチア>だ。
ローマ経由の乗り継ぎに独り戸惑いながらも、
ビジネス・クラスがエコノミーにされていた。
一時間程度のことだからと我慢して夜十時過ぎ、
いつの間にか大きくなっていたヴェネチア空港に辿り着いた。
乱暴な取扱いでペコンと変形してしまった
アルミバッグ一個のオレに、
近づいてきたカッチリした身体の若い男は私服だった。
「パスポートを見せてくれ」
スキンヘッドと照らしあわせ「一人か」と言う。
「ゲージツ家はいつもひとりだ」
「どんなアートだ」
「彫刻家だよ。この中に入っているのは、
歯ブラシとカミソリ、ケージツ家の身を包む
少々のパンツとセーターとカタログだけだ」
不自由な言葉で遣り取りしていてもラチがあかない。
ヨーロッパで唯一のオレの若い衆TSUCHYが
出迎えに来ているはずだ。
「表でダチが待っている。
アンタがそれを持って一緒に来てくれ」
ドアが開いたら待っていたTSUCCHYに、
「オレを説明してやってくれ」。
大きな彫刻を創りミラノで
この秋個展を大成功させたことをポリスに言い聞かせていた。
ポリスはやっとニッコリと納得したようだ。
大きくなった空港は
ニューヨークとの直行便も飛ぶようになり、
<9・11>以来警戒が厳重になったらしいうえに、
高知で大火炎のゲージツを終えて間もなく
国境を通過していくゲージツ家は、
怪しい匂いを発していたのかもしれない。
冷たい小雨模様。
水嵩が増したなかを水上タクシーで
ホテルのあるヴェネチア島へ。
TSUCCHYの家と窓越しで喋れるほどの裏にある、
前に来たとき泊まった二つ星
<MIGNONホテル>。
起きて半畳寝て一畳…刑務所ほどの小さな部屋だ。
オレはこんなカプセルみたいなスペースが落ち着く。
彼の家に寄り、夜が遅くなるだろうからと
彼が作っておいてくれた
野菜をコッテリと煮込んだスープをよばれた。
TSUCCHYはかってシェフだったこともあるし、
ソムリエの資格もある。美味いやら有難いやら。
夜中、不気味に低く唸る警報が続くなか眠って、
いつもと変らず朝七時起きる。
TSUCCHYが九時にホテルに迎え。
「昨夜は変なサイレンが鳴っていたな」
「水嵩警報です」
ゴム長に履き替え街を歩くと街中の路地が水浸しだ。
火炎まみれだった高知の次は、水が溢れるヴェネチアか。
サンマルコの広大な広場はとうとう海と繋がっていた。
「海上の都だな」
「ええ、天変が好きなクマさんにはベストシーズンです。
いつものこの時期は凄く寒いんですが、
今年はモロッコからのシロッコが吹きつけ
湿気を運んできて、満潮と重なるとこんな状態になるから、
ヴェネチア人は干潮と満潮の水嵩警報が
生活の重大情報なんです」
「ヒラメやタイや水棲動物と一緒だな」。
市役所の職員が街中に回した足場板の上を
長靴で急ぐのは地元民、
短い靴でノロノロ渡るのは観光客だ。
ヴェネチア人と浮遊人はザブザブと水の中を歩く。
少し前の足場からドイツの観光客が落ちた。
そういえば、いつかカナダで流氷の割目に落ちたのも
ドイツ人だった。
サンマルコ広場からヴィレンナーレ地区、
十四世紀に出来た回廊のある大きな墓地のスペースを視察。
昼もTSUCCHYが作ってくれた
本場のトマト・スパゲッティを喰う。
水上タクシーでムラーノ島へ。
世界的なマエストロ・PINOのスタジオ。
気難しい彼は
「明日大きな硝子を吹くから見においでよ」
と誘ってくれた。
前回に来たときに会った
若いマエストロたちの仕事場を訪ねる。
みんなオレのミラノでの大成功を喜んでくれた。
ギャラリーのオーナーはオレのカタログを見て、
「スペインで計画している鉄と硝子の巨大オブジェの
プロジェクトにぴったりだ。もう少し資料を送ってくれ」
と言うじゃないか。
TSUCCHYのファクトリーはムラーノでも大きい。
「僕のスタジオは世界のコレクターの目に触れる
機会が多いから、クマさんの作品を常設展示したらと
アンナとも話しているんです」
ムラーノ発行のガラス雑誌で来春号はオレの特集だ。
美術記者アルベルトのインタヴュー。
TSUCCHYとヨメのアンナが通訳してくれた。
ゼニが無いからといってショボクレテいる場合ではない。
一気呵成にいくかい!
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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