ヴェネチア浮浪・・・2
ヴィレンナーレ地区の古い墓場を焼き付けた頭蓋空間に、
夜中じゅう遊んでいて眠るのを忘れて朝六時過ぎ。
久しぶりに浴びたシャワーでスキンヘッドを剃り
乱雑なイメージをさっぱりさせてると、
パンツ一丁にセーターを腹に掛けただけで
眠ったようだ。
TSUCCHYの電話で眼を覚ましたら
約束の午前八時。
剃髪も済ませていたからすぐに降りていった入口に、
アンナとゴム長の袋を提げた
TSUCCHYが待っていた。
「今日も水嵩警報が出ているから用心です」。
小雨の中、水上バスでムラーノ島の
PINOのスタジオでは、
すでに彼は三人のスタ ッフと仕事を開始していた。
オレは宙吹きなぞより大きな無垢の硝子を、
重力と闘いながら成形する彼の力ワザを見たい。
TSUCCHYがそれを伝えると、
「伝統的なヴェネチアン色硝子の粉を塗しヒトを創る。
男がいいか、女か」
世界的なマエストロはオレのために
その一端を見せるという。
「もちろん女さ」
「そう、当然だよな」
二コッとした後は、物凄いスピードの手際で
女を出現させた。思わず拍手。
PINOは手を休めてオレたちを
裏の作品展示室に案内して、
自分の最近作を見せてくれた。
三〇kg以上もある無垢の硝子を
精巧に細工したものだ。
「今までの人生でいろんなモノを
この眼で記憶しているから何だって出来るんだ。
よおく観察してきたからなぁ」
海の生物や昆虫や動物にまじって、
片隅に掌に乗るほどの美しい硝子の女性器を見つけた。
「よおく観察したんだねぇ」と言うと、
悪戯っぽく微笑んだが、
すぐに慌ててそこらにあった誰かのティシャツを被せた。
近づいてきたアンナの眼から咄嗟に遠ざけたのだ。
彼はまたスタジオに戻って
大きな硝子を操り出した。
「アリベデルチー」
邪魔になってはイケナイからそっと外に出た。TSUCCHYに
「いつかオレは彼と組んで
不思議なヒカリを創ってみたくなった。
今度彼に伝えてくれよ」
「PINOとクマさんが組むことが実現したら、
奇跡的だわ」
アンナが嬉しそうに言った。
「奇跡か?ミラノの次はヴェネチアだな…」。
アンナの親父さんフランコと久しぶりに会ったが、
温和な紳士で見違えてしまった
頑固だったマエストロの彼にサインした
MUDIMAでのカタログをプレゼントすると
「お前のやることはクレイジーだけど
作品は凄いじゃないか」。
TSUCCHYが探しておいてくれた
水上バスやタクシーを作っている造船所を訪ね、
無花果の樹の下に積み上げてあった
四艘の廃船を見つけたオレはオーナーに
「あれはどうするのか」と指差す。
「朽ち果てるだけさ」
「オレにくれないか、ゲージツで再生させるんだ」
「OK、フランコはムカシからの知り合いだ、
持っていけよ」。
オレの頭蓋にあるイメージどうりだった。
「メシにするか。オレが奢るよ」
「家に帰って僕が料理します、
今日はミートソースのスパゲッティです」
「面倒だろう」
「勿体ないです。塵も積もれば山となります」
さすが若いときからヨーロッパをさすらって
ムラーノで若くして成功した彼が、
年長のオレを気遣う。
「すまんなぁ。またよばれることにするか」
「夜のメニューも考えてます」
「本当かよ。楽しみにしてるぞ」
オレのお返しはヴェネチアで
奇跡的な美しいヒカリを創りだして見せることだ。
湿気を含んだシッロコが吹くなか
サンマルコ広場の裏通りを散策。
街角でキタノ映画のポスターを発見し気をよくして、
バーに寄りエスプレッソのトリプルを飲む。
相変わらずの人気である。
部屋に戻り、昨日買った携帯用の老眼鏡を掛けて
読んでいた森敦の<月山>の雪の場面で激しい雨の音に、
窓を開けてみるとTSUCCHYの家から
流れてくる肉を炒める音だった。
しばらくすると
「用意が出来ました、どうぞ」
テラスからTSUCCHYが叫んでいる。
ホテルから二十三歩でたどり着く彼の家のテーブルでは、
野菜と烏賊のリゾット、
香味野菜で焼いてからワインとスープで煮込んだ
手の込んだ料理が待っていた。
今日も色んな人々と会い、
再び奇跡に向かう予感の浮浪の一日だった。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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