クマちゃんからの便り

ヴェネチア・シミュレーション

オレのゲージツがますます巨大化していくにつれて、
「ゲージツ家になりたいからそばで勉強したい」
と言っていた舌の根も乾かぬうちに、
やれ、「彼女が出来たからゼニが欲しい」だの
「具合が悪いから休みをくれ」とほざき出す
中途半端な助手や書生どもをお払い箱にし、
オレ独りのゲージツ・ジカンに戻って久しくなった。

オレのゲージツは伝承する必要もない一代限りだ。

巨大なオブジェを立ち上げるときにだけ、
いつもの中高年の職人たちが
どっからともなく集結してくる。
初代の新幹線の車体に製作に携わった
溶接鋼工はすでに68歳、
計画倒産に出くわして長く勤めた製作所から
町工場に再就職した技師は、もう五〇も半ばだし、
ゼネコン勤務の所長は定年間近だ。
その他、梱包屋の二代目や村のクレーン屋など、
美術の教養なぞはない連中である。

ヴェネチアへ向かう<循環するヒカリ>の
シミュレーション当日の予報も雨だった。
映像作家のアサカワやワクイが
記録用のビデオ・カメラと芋ショーチューを下げてきた。
雪混じりの雨が降り続く前日、
FACTORYに集まった職人たちが集まってきて、
<晴間乞い>の酒を呑むことになった。
しかし慌しく仕上げ作業に没頭していたオレに
食う物の準備までは気が回らなかったから、
職人が朝食用に持ち込んでいたアンパンで呑んだ。

「糖尿が出て、タバコを医者に止められて
 二ヶ月になるんだけど、体重が増えてしまったんだ」
 
「医者の言うことを鵜呑みにするから、
 かえって悪くなるんだ。六十八年経ったんだから
 糖尿だか肺癌だか分からなくしてしまえばイイ。
 ハイライトやるよ」
 
彼はオレの差し出すタバコの煙を美味そうに吐き出した。
保存してあった冷凍した大きな身欠き鰊を見つけ、
囲炉裏の遠赤外線でじっくり焼いて分け合って食う。
学生の頃のようなエン会は三時まで続いて、
朝、雨は止み風も治まっていた。
しかし、甲斐駒ケ岳は分厚い雪雲で
姿はまったく見えなく、
いつ降り出しても仕方のない空だった。

高台にある<神代桜>の実相寺に
八時にトラック、クレーン車も集まった。

「全部ヴェネチアのシュミレーションだ。
 手動クレーンの試運転は慎重に、さあいくぞ」
 
たった手元は六人だ、最後はカメラスタッフ、
マネージャーの成瀬も筋肉を出す。
もうすぐ200kgのガラスの取り付けが終わる頃、
高台に風が出てきた。

風よ、止め。

小さな雨粒が流れてきた。
ヤバイぞ。ガラスは自重で滑る。
十本目がついに無事立った。





十トンのH鋼と二トンのヒカリ。
このタフなゲージツ作業を、
5月になればヴェネチアンの手元たちとやるのである。
手動のクレーンや作業の手順にまだ改良が必要だ。
いつの間にかオレは眠りこけていて、
みんなそれぞれ帰って行ったらしい。
久々に眩しく晴れた日、高台まで歩いて
<循環するヒカリ>に会いに行った。
まだ荒縄を巻く作業が残っているが、改めて大きく感じた。
これがヴェネチアに向かって港を離れる頃、
招待されている<OPEN2003>への
オブジェにかかっているのだろう。



『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2003-02-28-FRI

KUMA
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