無限満月
大蔵正之助と会った新宿上空に大きな月が浮遊していた。
「これから江ノ島海岸にバイクを飛ばして、
鼓を打ちに行くんだよ」
満月の夜中に、彼の月例独奏会らしい。
「今度オレも行ってみるかい」
「うん、待っているよ」
「じゃあまたな」
大蔵は重低音を残して海に向かい、
オレはネオンの海に入っていった。
巷を浮遊するときにオレはいっさいの約束はしない。
初めて出会った医者が、
やっと手に入れたという封を開けて
勧めてくれたショーチ ューの<ハナタレ>が、
脳細胞の一個一個にしみこんでいき
在処をクリアーにしていった。
六五度の液体は恐 れを知らない美しさである。
飯倉片町で<ハナタレ>のメモリーで
安ショーチューを呑んでいたら、
アングラからの盟友・小林薫と久しぶりに会った。
「元気だったか、この怠け者め」
「相変わらず元気過ぎるよ」
憎まれ口の挨拶で、
筋肉トレーニングやヤロウの持ち馬、
ゲージツなどを話題に呑ん でいた。
「ところでヴェネチアにオレのオブジェを観にこないか」
「これからちょっとまとまった映画に入るんだ」
「オレの方は五ヶ月間もやっているんだ。
秋のヴェネチアもいいぞ、じゃあまたな」
大蔵が鼓を打ち原始の声を浴びせている時刻、
満月がいっそう膨らみ、
チャイニー ズ・レストランの垂直線に半分切られ、
ますます好調の気配が現れた。
「やあ、ゲージツ家。もうすぐだね。
ところでヴェネチアでのこと書いてみないか」
小説家・伊集院静氏である。
「ヴェネチアまで行く気持ちを書けばいいんだ」
「………」
「丁度、編集者と一緒なんだ」
連れの編集青年を紹介してくれた。
原稿の枚数、写真はオレが自分で撮ることなど、
話はトントン進んだ。
あまりにもタイミングが良すぎると思ったが、
オレのなかにコトバのオブジェが
出来そうな気になっていた。
「よしっ、やる」
「じゃ楽しみにしてるよ」
二人はすうーっと満月に消えていった。
オレの巷浮遊と伊集院氏の回遊がつかの間、
一点で交わったのだった。
伊集院氏のさりげない心遣いに独り乾杯。
四時過ぎ、まだ夜の巷に降りると、
もう満月は<ハナタレ>の酔いとともに
別のクニに去っていた。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。
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