クマちゃんからの便り |
ヴェネチア浮遊 その8 トンネル掘り、起重機男、箱屋、格闘家。 フランチェスコ教会の前で、朝八時はまだ 鳩がうろうろするばかりで誰もいない。 日本から呼びつけた手元を収容する安アパートを リド島に借りておいた。 昨夜予定ではヴェネチア空港に着いてるはずだった。 今日の作業は二トンの硝子柱を手動クレーンで 三メートル上空に設置するのだ。 自分のアパートを早く出すぎたオレは、 ハイライトを吸いながら早まる気分を押さえていた。 定年が迫ったトンネル掘りの土木技師、 村の百姓で起重機を操る男、輸出梱包をする箱屋、 自分の身体を壊す格闘技をしながら 医療器具販売の格闘家、 誰ひとりとして海外に出たことはないし 美術の教養の欠けらもない手元たちは、 武川FACTORYでの組み立てに オレをサポートしている連中だ。 ここで待ち合わせたのだが、 ケイタイ電話すら持ってない彼らは 果たして無事着いたのやら。 今回の大規模な血みどろのゲージツ遠征に、 安い航空チケットと オレがデザインした作業服だけを渡し 三日間だけの強制リクルートだった。 予定の八時半、船着場の方から白い奴らがやってきた。 はじめファビオの一団だと思った。 「よく来たな」 「まだ眠ってないんだ」 「眠るんじゃない。眠ったら死ぬぞ、 時差ボケの日常を越えるには、 ゲージツジカンをすぐに開始する」 オレはもうヒカリへ向かっていた。 「あーっ、短くなっている」 一メートル切ったクレーンのポールに トンネルと起重機男が叫んだ。 「立ち上げる時回廊の壁を削ってしまうんだ」 「これでは四メートルちかい硝子の柱が吊りきれない」 「切るしかなかったんだ。バカタレめ。 無くなったコトを懐かしんでいる場合ではない。 無いところから始めるんだ」 「鬼ッ!」 手元どもが叫んだ。 「オレは毛もないし角もない」 TSUCHYの通訳で、合流したファビオ組と ニッポンチームとのミィーティング。 メインイベントが開始した。 去年の秋、唐十郎の芝居<虹屋敷>の ラストシーン十秒のために、 赤テントのなかに巨大な虹の現す装置を作った。 スペクトルについて せいぜい中学の教科書程度の知識だったが、 スポットライトを改良した光源装置に、 一辺を五センチに研きだした 三角柱を装着したオレの虹は、 落としたテント幕から飛び出し街のビル壁を走った。 その直後フランチェスコ修道教会を ロケハンしたのだったが、 回廊の壁に張り巡らす八十メートルの <CAMPANELA>の上に 本物のヴェネチアの太陽光で スペクトルを走らせてみたいというアイデアはあった。 ジャパン組がメインで ファビオ組がフォローするシステムがうまくいって、 四時までには十本二トンになる硝子の柱が無事立った。 ヴェネチアの澄み切ったヒカリが眼を射る。 オレの小さな眼は頭蓋に開いたピンホールで、 射し込んだヒカリが頭蓋内の暗闇でスペクトルになった。 夢だと思った。 「クレーンが立ってるうちに デッカいプリズムを鉄骨の上に上げるんだ」 フランチェスコ像の前に来たとき、 十五メートル向こうの回廊の古い煉瓦壁に 大きくくっきりと分光したヒカリが映しだされた。 「どうだ、イイもの見ただろう。 このヒカリはお前等が一生働いても 買えないジカンなんだ。 眼に刻んでおけ。 そして今回払えるギャラは、 あの世まで持っていけるこのヒカリだ」 鬼は叫んだが、他のコトバは見つからなかった。 トンネル掘り、起重機男、箱屋、医療器具。 TSUCHY、浮波美男、荒汐男、 みんな呆けた顔でヒカリを眺めていた。 もちろんオレも…。 <LA LUCE CIRCOLANTE>は ここに来れば観ることができる。 しかし、天気や時刻で見えたり消えたりする オレのスペクトルだ。 明日、角度を試行してもっと大きな スペクトルを支払ってやろう。 『蔓草のコクピット』 (つるくさのこくぴっと) 篠原勝之著 文芸春秋刊 定価 本体1619円+税 ISBN4-16-320130-0 クマさんの書き下ろし小説集です。 表題作「蔓草のコクピット」ほか 「セントー的ヨクジョー絵画」 「トタンの又三郎」など8編収録。 カバー絵は、クマさん画の 状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |
2003-05-28-WED
戻る |