クマちゃんからの便り

ヴェネチア浮遊 その10
リド島、ジーナ、ヴェネチアの休日。


<LA LUCE CIRCOLANTE>を完了し、
あとは八〇メートルの
<CAMPANELLA>だけになった日曜日。

作務衣を着たTSUCHYが迎えにきて、
今日は初めて完全にオフにした。
マネージャー・ナルセと三人でリド島に散歩だ。
海岸沿いに落ち着いた大きな高級ホテルが並んでいる
メインストリートを走っているバスや自動車は、
久しぶりに眼にする文明である。

船着き場前の自転車屋で借りた
二人漕ぎの屋根付き自転車を
TSUCHYとナルセに漕がせ、
真ん中に挟まって腰掛けたオレは歩くのでなく、
車の速さでもなくラクチンな散歩になった。

フワフワと漂うように…。
さすがにTSUCHYはヴェネチアの過ごし方を知っている。

真夏の日差し、海岸レストランのパラソル下で、
ビールと潰した松の実とガーリックを
オリーブ油でまぶしたスパゲッティ、
焼いたチヌを喰っていた。

「来週あたりからこの海岸は
 海水客でいっぱいになるんです」
 
海の家の主のような作務衣の
TSUCHYのケイタイが鳴った。

「すぐそこのホテルで<OPEN2003>の
 ミーティングしているPAOLOからでした」
 
今、イタリア招待作家で彫刻を出品する
ジーナ・ロロブリジダが来ていて、
コーヒータイムになって
PAOLOがキューレートした
オレのオブジェの話をしていたら、
近くにいるなら是非会いたいと言ってるらしいのだ。
土方暮らしの二〇代、
唯一の娯楽は場末の三流館に回ってくる
ポーランドやイタリア、フランス映画を見ることで、
女神のジーナに会うために入った映画館の暗闇で
至福のジカンを過ごしたものだった。

しかし神楽坂や新宿東口にあった映画館もなくなり、
映画を観ることも少なくなくなったオレが、
四〇年ちかく経ってリド島のカフェで
ジーナに会えるなんてことがあっていいものか。

「<ヴェニスの休日>になりましたね、マエストロ。
 でも少し落ち着いてくださいよ」

TSUCHYがクールに言いやがった。
傍目にも取り乱しが見られてしまったのだ。
大概のことでは動揺しないが、
ダラムサラの亡命先の寺院で
ダライラマ法王に謁見した時以来の気分だった。

大勢の<OPEN2003>事務局のひとや
スポンサーのなかでヒカリを放っていた。

「ヤーァ、ジーナ。オレがKUMAです。
 若い頃東京であんたを見つめていたんだよ。」

気合いを込めた一声を、少し老いた女優は
しかし気品に溢れていた笑顔で受け止め、

「今あなたの話を聞いていたんだわ」

隣に座ったオレに
自分をテーマにして創ったブロンズや
大理石の大きな作品のファイルを見せてくれた。
美しい彫刻だった。

極太サインペンを差し出しサインを求めると、

「こんな太いの見たことがないわ、いただけないかしら」

「もちろん差し上げますとも、
 今度お会いするときは箱でお持ちします」

眼の端に気をもむTSUCHYが見えた。

彼女は使い込んだシャネルの鞄から取り出した
作品プロフィール用のカードに快く
<To Kuma   Gina>と書いてくれたのだった。

それだけでは終わらない。
手鏡を見ながら口紅を引きなおし、
もう一つの想像の世界に入っていった女神は
カードにキスマークさえも付け加えてくれた。





インタビューアーが登場して
彼女へのインタビューが始まったから、
オレは隣のテーブルに移って、終わるのを待ち
オレの作業服をプレゼントする機会を待った。

『今だ!』

KUMAのサインを書いた作業服をつかんで
彼女に近寄ろうとしたが、
TSUCHYとPAOLOに両脇を捕られ
羽交い締めされて停まったオレに、

「落ち着いて。待ってください、マエストロ。
 彼女のインタビューはまだ終わってません。」

恰好悪かった。
ハイライトを吸って特に見たくもない海を眺めていた。

やっと雰囲気がざわめいて

「終わったようです」

TSUCHYが眼で行くように促してくれた。

彼女が袖を通すのを手伝った。

「ありがとう。素敵な色だわ」

彼女のサングラスの赤と作業服の折り返しの赤が
うまく合っていた。
そのまま作業服を着て
お付きを従えたかぐや姫のように帰っていった。
白昼夢のような<ヴェニスの休日>だった。

『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。

2003-05-30-FRI

KUMA
戻る