クマちゃんからの便り |
ヴェネチア浮遊 その16 さえない中年男、5ユーロ、殴られた老女。 相変わらず鳩が愚痴を呟き、乾いた羽音をたてる日曜日。 すでに明るくなった水路が揺れて、 テノール声で立ち話する男等の足元で犬が まだ微睡んでいる朝六時は、 <THE MAN FROM SKY>が突き刺さる 錦糸公園では、ケイタイで取引するオッチャンが 蹴り飛ばしたジュース缶で、 鳩が一斉に飛び立つ午後一時だろう。 オレの天井は疲れを知らない子供らの床なのか、 うなり倒れる宇宙独楽の回転活動は、 もう三時間鳴りやまない。 オレにも宇宙すら掌にあったジダイも あったような気もする。 あっちこちの鎧戸が開いた窓から、 分厚く切った野菜がオリーブオイルと ヴァルサミコと混ざる音、 オッカサンの叱り声に、抵抗する子供声。 路地を挟んで洗濯物の隊列が延びてくる。 ダウンタウンの石畳は完全な朝である。 オレのパソコンはサーバーと まだなかなか繋がらないのは、 過剰なウィルス防止ソフトが本末転倒にも、 メール全ての受信さえ拒絶しているらしい。 即席の札幌みそラーメンに 緊急用の白飯を入れてお湯を注ぎ出来上がった、 オレのラーメン・リゾットである。 喰いながらそのことに気付き <閉じ篭もり>を免れたのは、 乾燥食品の汁っ気で再生する タイムラグの御陰だった。 ヨーロッパでの土・日は身動きが取れないが、 フランチェスコ教会の設置が終わった <Campanella>を前にして TSUCHYとこれからのパフォーマンスを考える。 部屋に戻って明日のアクションに備えて ぼんやりしていると 「ジッとしてられないので、晩飯を一緒しましょう、 近くまで行きます」 とのケイタイが鳴った。 オレの部屋から歩いて三分。 ダウンタウンのド真ん中、 着いた日、川岸から奇声が上がった店の一軒で、 ワインを呑みながらアンテパスタの盛り合わせを喰っていた。 店の真ん中の二〇人ほどの大テーブルは ワイシャツ姿の生真面目スタイルの面々が お行儀よく喰っていて、 グリークラブの人々のように見えた。 蒸し暑い店内の小高いステージらしいオレ達のすぐ横に、 楽器を持った高城みたいな帽子の さえない中年男が四人ウロウロ。 アコーディオン、ヴァイオリン、 アコースティックギターにサックスの四人組だ。 マジシャンだと思っていたら、そのうち始まった。 ミュジシャンだった。 明日に備えて喰っていたアルゼンチン風ステーキと まるで土臭いメロディーに分からない歌詞が、 旅路のオレの舌に絡まって 頭蓋骨が汗を噴き出しやがった。 母を捨て、故郷も捨て、 女のいる景色さえも捨ててきた音に 感じてしまったのだろう。 安っぽいコトバさえ理解できないオレに、 メロディーがヴァイブレートしたのだ。 唄いおわり客席を回る帽子に、 ディナーより高い五ユーロ札を放り込んだのは オレだけだったが、 明日TSUCHYのFACTORYで行う アクション・ペインティングのアングラ・タマシイに 蒼い火が灯った。 平穏だった出入り口で騒動が始まり、 酔った老女がなにやら大騒ぎで グラスやら皿を手当たり次第割っている。 誰も止めれない彼女の顔面を、 ついに店のオーナーが殴り飛ばした。 どうやら捨てるには遅すぎた彼の母親らしい。 表の運河ではそれぞれクラシック楽器を持った さっきのワイシャツ達が乗り組んだゴンドラで 演奏が始まった。 指揮者は運河の縁に立った 年長のワイシャツ男だったが、 もうオレの心には何も響かなかった。 暗がりで眼を腫らし血を流す老女が 独り心を静めて聴いていた。 『蔓草のコクピット』 (つるくさのこくぴっと) 篠原勝之著 文芸春秋刊 定価 本体1619円+税 ISBN4-16-320130-0 クマさんの書き下ろし小説集です。 表題作「蔓草のコクピット」ほか 「セントー的ヨクジョー絵画」 「トタンの又三郎」など8編収録。 カバー絵は、クマさん画の 状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |
2003-06-12-THU
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