クマちゃんからの便り |
ヴェネチア浮遊 その17 ムラノ島、太宰治、アジアの汁物。 アクションのために朝から準備だ。 場所はムラノ島にあるTSUCHYのFACTORY。 大量のペンキ缶を買って肩に担いで運ぶのだが、 今日の湿気は物凄い。 路地の隅々まで寒天状の湿度がびっしり詰まっている。 全てがゆっくり流れるヴェネチアで、 流れ落ちるオレの汗の速度は激しく、 これからのアクションへの気力さえ奪っていく。 夏の土方シゴトだってこうではなかった。 一枚が三畳間以上あるコンパネを一〇枚運び込んで 横一列に並べたところで、 工場裏の水道で全身に水を浴びる。 パンツの中にホースを突っ込んで キンタマを冷やしていたが、 ついに全部脱いでクールダウンしたオレは ヴィーナスの誕生だった。 これをフランチェスコ教会に運び、 オープニングに観客の前で 仕上げのパフォーマンスをサーヴィスすることにして、 最後はチカラを振り絞って<赤い色>のアクションだ。 もっと早いシゴトの予定だったが、 水道の蛇口とコンパネ・キャンバスとを 往ったり来たりで、 全身ペンキまみれで結局四時間かかった。 殺しの現場から戻ったようなまだ蒸し暑い夕方、 裏の水道で浴びた色を洗い流していると、 オレの躯からいつまでも血のような赤が流れていた。 三〇年前、オレは自分のゲージツを <銭湯的欲情絵画>と名付けて、 ペンキで銭湯の大壁画を描いていた。 玉川上水ちかくの銭湯の壁に 巨大なソーセージと新幹線と富士山を描いていたとき、 ボイラー室で主に勧められた茶をすすりながら 「ほら、そこのボイラーの前でだったよ。 太宰治が連れてきた産まれたばかりの赤子を、 毎日、<貰い湯>させていたよ」 と言った。描き終わって洗い場のタイルの上で、 オレはうかつにも 赤いペンキ缶をひっくり返してしまった。 夜中までかかって目地につまったペンキを、 四つん這いになって拭き取っていた 返り血を浴びギャラもなくなり情けないオレの姿が、 カランの鏡に映っていた。 ヴェネチアの水で洗い流す今のオレを、 三〇年前想像さえしていなかったオレは、 無意識の底に眠り、 朝には新しいオレに生まれ変わってきたのだ。 このまま脱水して干からびたとしても 惜しくはないし、 未来なぞ信じてもいないオレが、 TSUCHYのダチが寿司屋 <未来>をオープンするという駅前のホテルに、 TSUCHYの嫁アンナも連れだって行く。 客が多くてとうとう寿司のいっかんにも出会えなかった。 「KUMA、オープニングの前日 アメリカに行かなくてはならないんだ。 ゴメン、でも必ず見にいくよ」 世界的な硝子のマエストロ・PINOだった。 「ありがとう、いつかシゴト一緒しようぜ」 チャイニーズに向かった。 客は誰ひとりいない広い店。 オレは湯麺スープとチャーハン。 アジアの汁物は、脱水状態のオレをまた蘇らせた。 『蔓草のコクピット』 (つるくさのこくぴっと) 篠原勝之著 文芸春秋刊 定価 本体1619円+税 ISBN4-16-320130-0 クマさんの書き下ろし小説集です。 表題作「蔓草のコクピット」ほか 「セントー的ヨクジョー絵画」 「トタンの又三郎」など8編収録。 カバー絵は、クマさん画の 状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |
2003-06-13-FRI
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