ヴェネチア浮遊 その22
エスプレッソでお別れ、旅の終わりの葉書。
『必ず雨になる…』
オレは窓辺の椅子に腰掛けたまま、
二時間ほど前から頭蓋で少し下がってきた風の温度を
感知していたのは、
目蓋を閉じチルコランテのヒカリやビエンナーレの喧噪、
迷路のような石の路地、パーティーの社交なぞ、
ここでの一切の残像を消し去り、
頭蓋内の戸締まりをしてから、
まだ観ぬ北野武巨匠の<座頭市>に夢遊していたのだ。
眼を閉じると豊穣な闇の世界が産まれる。
座頭の目蓋を透かして稲妻のヒカリが走り、
炸裂する音が降ってきた。
ヴェネチアに来て初めての雨である。
吹き込む天水の飛沫をスキンヘッドに浴びる
静かな座頭の指は、圧し続けていた窓の古い石枠で
爪が剥がれそうになり、
残念なことに眼を開けてしまって
夢想から引き戻されてしまった。
手荷物は小さなボストンバッグ一個だが、
夜が明けたら明け渡すこの部屋のキッチンや洗面所から、
オレの生活の気配を消していくシゴトが残っている。
食器や鍋を片づけた棚に
ここの主が相当使い込んだらしい
小さなエスプレッソ・マシーンが見つかった。
しかも、コーヒーの粉の壺まであるじゃないか。
水を注ぎ粉を詰めたフィルターを装着、
圧力蓋のネジをしめ電源を入れて間もなく
「プッシュー!」
ダブルの量の濃い液がエスプレッソカップに滴る。
粉の詰め具合が我ながら巧くいった。
砂糖をたっぷり入れて濃厚な味を愉しみ、
底に残った砂糖を匙で刮げて舐めると、
切り口が乾燥した羊羹を囓る時に似た
ふくよかなジカンになる。
旅の終わりにもうひとりのオレ宛に
絵葉書を書くのが癖だ。
出発前、ヴェネチア空港のポストに投函し届いたなら、
オレの中で逝ってしまった男の葉書を
オレ自身が読み燃やしてしまう。
しかし、サハラ砂漠やパレスチナの瓦礫の街から
出した葉書はまだ届いていない。
あの男等はだからまだ、
オレの頭蓋の底の砂の海で鉄の塔を建て続け、
廃墟になった砂の街を彷徨い続けているのだろう。
『蔓草のコクピット』
(つるくさのこくぴっと)
篠原勝之著
文芸春秋刊
定価 本体1619円+税
ISBN4-16-320130-0
クマさんの書き下ろし小説集です。
表題作「蔓草のコクピット」ほか
「セントー的ヨクジョー絵画」
「トタンの又三郎」など8編収録。
カバー絵は、クマさん画の
状況劇場ポスターの原画「唐十郎版・風の又三郎」です。 |